過去の御神話解説

月ごとのお話

令和六年十一月八日御神話解説

大祖教 御神話解説

 今月は、御教祖様のお誕生月で、御教祖様は、新暦で十一月十四日の御誕生です。今月の十六日に御生誕祭では、心よりお祝いをさせて頂きたいと思います。
 本日は、昭和四十七年十一月八日の御神話より、お話させて頂きます。御教祖様の御教えの御本は、十一巻ありますが、本日は、第七巻からです。
 月日は、矢の如く巡って行きます。人間は心も身体も歳を取って行きますが、老いぼれてはなりません。しかし、現代では、心に悩みを抱えた人が殆どです。病や生命力の無い人、又家庭不和や仕事や社会全体に不円満な人、又必要な物質を頂けない人など、大勢います。生命、円満、物質のどれが欠けても悩みの種となり、笑えない状態になります。これを笑える状態にするにはどうすれば良いか、考えねばなりません。
 笑うという字は、竹冠が付いていますが、竹は、人間の努力を現しています。竹は、大地に深く根を張って、子孫繁栄を現しています。その下のノの字は、野に掛けて人間の世界を現しています。人間界で努力をして、大なるところの笑いを現界に於いて、しなければなりません。この精神を以て笑えば、闇は消えて、不幸が来る度に、この笑いを忘れずに笑って改善し、次も又笑って改善していけば、段々と上がって九段
迄上がる事が出来るのです。
 今、世界では、残酷極まりない戦争が、あちらこちらで起こっています。それは、怒り、怒る、不平不満や、欲望、嘆きの罪の写しなのです。速くこれを消さねばなりません。せめて神に一番近い日本から、この状態より抜け出なければなりません。しかし、今の日本も、食べる為、飲む為、目の前に現れた感覚に囚われて、神の笑いを忘れています。御教祖様は、色々の事に囚われず、神の笑いを求めて、徳のある方向へ進んで、日本が、神そのままの国になれる様、速く進んで欲しいと、御教祖様はこの御神話を説いて下さいました。
 うちの家では、家族が、大きな病気にかかってしまいました。目の前が真っ暗になった気がしました。病気平癒の祈願祭を、かけまくりましたが、手術も、出血が止まらずに三回も止血の手術をやり直す羽目になりました。神様のお知らせでは、命が無いと言われていたので、兎に角、今の所命があって、手術が終わったので、ホッとしています。実際の所、霊眼の開いていない普通の人間は、神様の本当のお働きを知る事ができま出来ません。しかも、神様は、これこれしかじかをしたとはおっしゃらないので、余計分からないのです。
 しかし、今回の場合、生命が無いと言われて、必死で祈願祭をし、出血が止まらなくなったりしましたが、生命は助かりました。「大難を小難に」と私は神様から言われて、納得しました。そして、本人は元気で、食欲もあり、仕事にも全て前向きである事に、今は心から御礼を申し上げたいと思います。まだまだ治療は続きますが、心がブレない様に神様に心を合わせて、しっかりと治療をして再発の無い様に、頑張りたいと思います。

令和六年十月八日御神話解説

大祖教 御神話解説

 暑さ、寒さも彼岸までと昔から言われている如く、彼岸を境に、気温も徐々に下がり始め、明日から十月に入りますが、朝晩は、めっきり涼しくなりました。

 本日は、昭和五十年十月八日の御神話より、お話させて頂きます。
人間は、日々の生活に於いて、心が上がったり下がったりしますが、それらは皆、神様のテストなのです。
そのテストというのは、仏教で言う十善戒、十か条の心の戒めです。この十か条の内、特に自分の罪に落ちているところが先に出てきます。
殺生が明けるので、多い人は殺生が、邪淫の強い人は邪淫が、という様に。

 私達を守護する神様は、どこに居られるかというと、いつも神様は、私達の中に居ます。
大という字は人間の姿を現しています。足二本は大地を踏み締めて、しっかりと立ち、頭は上に向かって突き出しています。
この大なる姿が人間の本当の姿ですが、現在の人間には首から上に出ていません。神様の世界に届いていません。
大の横線の一は、人間世界の横の繋がりです。
この横線の倫理道徳が、人間の世界で最高の所ですが、この一線を突き出た頭がなければ、生きる神の力は頂けないのです。

 自分を美化する為に言い訳ばかりする人は、大祖教の御教えに於いては、最低の部類です。
大祖教に於いては、仮面は要りません。見栄も要りません。本当のありのままの自分で良いのです。
自分を美化するとか、自分を飾るとか、言い訳とかは一切要りません。裸の心こそが、神様より価値あるものとして、認めて頂けるのです。

 どの宗教に於いても、隠していた事も、この度は一才を懺悔致しますというのが、トップの教えとなっています。
人の前でも、神の前でも、恥も無く、人間世界の仮面は、今日を以て抜き召されと申されています。
自分の心に写っている事が、目の前に出てきます。言い訳をしなければならない人は、それが心に写っています。
「言い訳をやめなさい。」と言われたら「はい、すみません。」と素直に謝って方向転換をする事が出来たら、自分の我を抜いて助けて頂ける、命の繋がる道が開くのです。

 神様より、色々と教えを頂いても、実行出来ないと、何も身に付きません。
この御神話を読ませて頂いて、私も言い訳を止め、神様の言われる事を実行していきたいと思います。

令和六年九月八日御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、お元気ですか。先日の迷走台風では、日本列島全部が巻き込まれて大変な被害になりました。
皆様の所では、どうだったでしょうか。お見舞い申し上げます。
本日は、昭和五十二年九月八日の御神話より、お話ししたいと思います。

 昭和五十二年九月八日は、御教祖様の十年行の最後の仕上げ行となる感謝祭で、
それ故、この感縁謝祭に参列出来た人は、その陰徳により、本人が出来ていてもいなくても、
多少の穢れのある人も、皆同列にて大祖護光天大神様の大学院に入学させて頂いたのです。


 御教祖様は、昭和四十二年三月より、昭和五十二年迄、十年間、御本部おはを出られて、お行をなさいました。
その間、現界の有推為転変の人間世界の中で、地獄の苦しみを受けられたのです。
しかし、神様は、苦しみを苦しみと受け取っては、上仁上がる事は出来ない事、苦しみを楽しみと思ってこそ、
その楽しい中に、生き物は育ち、大きく成長する事を、教えてくださったのです。
苦しみを楽しみと受け取っては、物は滅びてしまい、生きる事は出来ません。
何事も神の思し召しかと、喜べる心に於いて、黒雲も晴天に変わるのです。


 御教祖様は、昭和四十二年三月に御本部を出られました。
週十万人を助ける為、その人の罪を自分の身に振り返る振り替え行をなさったので、
その穢れを落とさなけおですればならなかったのです。
その罪は地獄へ落ちなければならない程の罪でした。
その行の間、味方と思う人が数々の邪魔を致しました。
芦屋のマンションに居られた時は、万博で行き交う電車の音で、体調を崩されて公設記念病院に入院されました。


 その時に、御見舞いの天使が死んだ人を送り出す病院の裏門から入って来て、その度に死神を御教祖様の所へ連れて来たのです。
死神が数十人取り付いて、もうこれで命が切れるか、と思われた時に、お付きの天使が、病気直しの行者を連れて来ました。
そして、その行者は、御教祖様の身体に手をさあっとかざしただけで、死神を全部連れて行ってしまったのです。


 そして、それから御教祖様のお身体は、すくすくと元気になっていかれました。
ここで、七年行は終了され、御本部にお帰りになり、数々の改革をなさいました。
一つ一つ言えば出来上がり、大祖神大御神様の比類無き力の強さを、ここに証明なさったのです。
ここから三年間で、大祖教は生きた宗教になりました。
御教祖様は、した事の無い労働、修養をして、万物を愛して、愛があればものは必ず生き返る事、
死にかけているものも、生き返る事を、実行して見せられたのです。


 聖典に、
「従順無くば我が心実を結ばず 幸福は汝に近し 口にあり心にあり 汝は真実の教えによりて神の如くなられよ」
とあります様に、「はい」と答える従順さは大切で、特に神様の言われる事に対して「はい」と答えられるかどうかにかかっています。
心願成就となる為には、自分の」足りない所を、再度再度改めて、「はい」と答えて進む様に、御教祖様は、この教えを説いて下さったのです。

令和六年八月八日御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、体温を超える暑い日が続いていますが、お元気ですか。
今は、パリ五輪も終わり、日本は、東京五輪を除きメダル獲得の数は、今までの最高になりました。
競技を見ていると、最後まで決して諦めない日本の頑張りに、とても元気をもらいました。
負けそうになりながら、諦めず、粘り強く、頑張り続けて、そうすると勝負の神様も微笑んで、勝利を自分のものにしたのです。
自分がすると決めた事には、決して諦めず、頑張る事が大事なのだと、見ていて本当に勇気を頂きました。

 本日は、昭和四十三年八月の八日の感謝祭の御神話をお送りしたいと思います。
まず、地上の人間は本当に一日を幸せに暮らしているでしょうか。
ただ、物質面の世界のみを幸せの如く追い回している姿が、あまりにも多い。
御教祖様は、今までは物質面と円満が多く、御教祖様は、その事に非常にお疲れになりました。
それには行き詰まりが来ます。

 本当の信仰とは何でしょうか。
折角信仰するならば、行き詰まりの来ない円満でなければならない、行きつまりの来ない物質でなければならない。
行きつまりの来ない生命でなければならない。真に命は尊いとは知りながら、生かして貰っている有り難い事を、皆様は知る事が出来るでしょうか。
粗末にしてはおりませんか。
命の尊さは、嬉しい。命のある所には、円満もある。物質もある。
命を忘れて物質と円満を追い回していたのでは、泣き苦しまねばならん。

 護光天は、本当は分かっておりながら、円満と物質に人間達の欲する方向へ、引きずられつつあったのです。
よって、今修理中です。もう殆ど良くなりましたが、もう元の護光仁ではありません。
神様の申すことでなかったら、皆に頼まれても、動けなくなりました。
ただ神は人間を愛し給うであろうから、わからない時は、いつでも聞いて下さい。
必要な食べ物は与え給うであろう。着るものも与え給うであろう。

 しかし、着物や食物は、潤いであって、神の潤いであって、それが命でない事を知らねばなりません。
神の世界には、穢れは無い。罪は無い。神は無限の知恵をもって、無限の愛を以て、本当に今人間が悔い改めるならば、どんな罪も許して下さる。
どんな深い仏教で言う因果法則でも、即座にお引き取り下さる。

 だがそれは、身も心も物も全部神様にお供えの上でなくてはならない。
自分の物として持ったままでのお供えであってはならない。
自分の物として持ったまま、それは亡者の如く大きな石に重られて、沈んで行ってはなりません。
自分の持たされる範囲で、神はそれぞれの支配下に物も与え給うので、神様の物を自分が使わせて貰えるのです。

 感謝を、どうか忘れないで、大祖護光仁の道を信仰する者は、真の真理の信仰へ向かって下さい。

令和六年七月八日御神話解説


 もう令和六年も半年を過ぎて、海山野開き祭を七月一日にさせて頂きました。
S三十八年七月八日の御神話によりますと、火、水、木、金、土の五行の徳のうち、野の徳は唯一つ水です。
野に出来る食料一切は、野の徳によるものです。山の徳として火の徳の足りない人は、母親を亡くする運命となります。
母親を亡くしては、生命、円満、物質の三つに反応が出ます。

 野の徳の水が無くなったら、地上より水気はかせて、肥満な土地は痩せ衰えて、物は育たなくなります。
家庭に於いても、水の徳が欠けると、大事な母の力は取り上げられて、子供を育てる力は無くなってしまうのです。
よって、野の徳は唯一つ、水のみですが、この水なくしては生物は生きていけません。とても大事な物です。

 五行の徳も、別々のものではなくて、五つのどれが欠けても困るのです。
どれが一つ欠けても、手をつなぐ事が出来ません。現界、霊界、天界の三界をクルクルと回っています。
五行の内、火は土を生じ火は土と手を繋いでいます。土は金を生じます。物質の通貨の元は金、紙幣の元祖です。
土は金と手を繋いで回っています。金は水と手を繋ぎ、水は木と手を繋いでいます。木は火を生じます。

 本日、七月八日は野開きの日で、心臓部に当たります。この野の徳は、いくら神を崇め、先祖に尽くし、先祖をあげても、人間的に徳を積まねば野の徳は頂けません。
野の徳とは、人間的な自分の価値をしっかりと知って、実る方向に努力しなければ頂けないのです。
よって、七月八日の野の開きの日は、水の開き、水の開きは心の開き、水の価値をしっかり知って、水の徳を感謝し、真心を以て神様の御教えに進んでいく様に、教えて頂きました。

 皆さんは、榊の花をご存知ですか。先日、住吉協会と、自宅の神様の両方に、御榊の花が咲いているのを見つけました。
裏側の茎から直接蕾が出ていて、それが次々と咲いて行ったのです。
可愛らしい、半分透明な小さな白い花です。私も初めて見たので、初めはびっくりしましたが、御聖典に、
「道かと思えば道でなし 妙々の真理の花は皆持てる」
とあります様に、榊の花が咲くのは良い事と思って、とても嬉しかったのですが、
考えてみると、現実に見せていただいても、見せて頂けなかったとしても、
神様の世界では、今大祖教を信仰している人は、皆榊の花は、咲いていると思いました。
三年前には、もう閉じてしまう所迄行っていた御本部を、なんとか元の状態に立ち返る所まで、それぞれの立場にて頑張りました。
考えてみますと、本当に良くここまで来たなあ、と思います。
今大祖教にいるお一人お一人に皆榊の花は咲いていると思います。
これからも、健康に気を遣って、頑張りたいと思います。
よろしく御願い致します。

令和五年六月御神話解説

大祖教 御神話解説

 本日は、S35、7、8のの御神話より、お話しさせて頂きます。
御道1の五、「生きたる喜び知るならば 完全(一つ一つ)が神の芸術(わざ)愛の宝は無尽蔵」御聖典のこのお言葉について、お話下さいました。

 この世にある全てのものは、神様の創られた芸術品です。生命あるもの、人間、動物、植物、又生命の無い衣食住の全て、神様が作られました。
ですから、コップ一つにしても感謝を持って使わせて頂き、用を果たして宇宙に帰るまで、大事に使わせて頂く事が大切です。
一つ一つが満足して宇宙の要素に帰る、この事を仏教用語で成仏すると言います。

 人間の欠点は、非常に心が奢りやすい事です。この驕る心が、神様より頂いたこの世の芸術品を幾らでも殺しているという事になります。
十年使えるものを一大根は、二年で捨ててしまう。又食事にしても不足を山程言って使わないで、そこらへんに捨ててしまったとするならば、
その捨てられた大根なら大根は役目を果たせず、殺されtが事になります。
殺した方の人間は、殺生の罪を神様より着せられてしまいます。
この様な罪が重なりますと、今幸せであっても、やがて全て取り上げられて、物質不如意となり、貧乏のどん底に堕ちるねばならなくなります。

 ですから、私達は自分の前にある一つ一つを本当に生かして、感謝を以て使い切るという事が大事な事となります。
それが生きたる喜びを知る事となり、その行為の一つ一つが信仰であり、神の道です。

 ここで、釈迦のお話をして頂きました。釈迦は、その魂を練る為、最初は非常に難行苦行をなさいました。
そして、如何なる事にも耐え抜ける諸行無常の行にも合格なさいました。諸行は、非常に苦しく矛盾だらけの世の中で、反省に反省を重ね、
理解に理解をして許し難きを許し、耐え難きを耐える行です。

 そして、その修行を終えられたので、神様はその国の王様を通じて、新しい衣を与えられました。
古い衣はというと、ボロボロになったので、雑巾にし、その雑巾もボロボロになったので、教えを説く神殿の壁に塗り込められたのです。
こうして十分に、その衣も三役を果たして、十二分に使う事が出来て、釈迦のお心が奢っていないと見定めた神様は、一段上がる所を二段一辺に、例えば七段より九段へ上げられたのです。

 人間は、万物の長であるので、周りの全ての物を生かしてやり、見守って大事にする事が、神の分け御霊を生かす事になおてります。
又、人間は神の創りし芸術と言われていますが、例えば、この手で大きいものを掴めれば、米粒の様な小さい物も掴む事が出来ます。
この宇宙ですら、人間の手で壊す事も出来れば、大勢の人を助ける事も出来ます。

 人間の胸先三寸により、神様の使命を果たす事も出来、又悪魔の仲間入りも出来ます。
悪魔の仲間入りをしては、この地球は破壊していまいます。
信仰に於いては、肉体を持つ人間は、全て完全であるとは、絶対に言えません。
人を信じるのではなく、唯絶対なる神、大祖神を信じ、その教えを実行して行く事が確実な道です。
そうすれば、教典を唱えるだけで、魔は逃げて行きます。
この世にある全ての神の創られた芸術を知り、それを心より喜び、感謝して生かして使わせて頂く事が、神様の御心に叶う事となり、信仰の向上につながります。

 信仰に於いて、驕る心は天狗となり、神様は一番嫌われるのです。
人間は、ああなりたいと思ってなってみたら、すぐ有り難さを忘れて次を要求します。
次に登れなかった時は、非常な恨みと不足心を抱きます。
神様は、必ず上仁登りなさいと申されるけれど、それは満足して登らなければなりません。
そうすれば、その人は、生きたまま天国界に登る事が出来ます。

 御教祖様と時を同じくしyて生まれ、そしてこの世で大祖教に御縁のあった方は、深い神縁のある方で、御先祖も徳のある方なのです。
御教祖様は生涯を通じて私達に、大祖大神様の御意志を教えて下さいました。
その中の一つが、本日教えて頂いている「生きたる喜び観(し)るならば、完全(一つ一つ)が神の芸術(わざ)愛の宝は無尽蔵」です。
この世にある全ての物は、神様から頂いた物なので、いつも泉の様に潤って来る、感謝を以てものを生かす使い方をするように、教えて頂きました。

令和六年五月八日御神話解説

大祖教 御神話解説
新緑の五月となりました。気温の振れ幅が十度位あって、体がついて行かず、疲れている人が大きうなっています。
貴方は、如何ですか。

 本日は、昭和三十八年五月八日の御神話より、お話しさせて頂きます。

信仰において、一番大事な事は、自己の精い神改革です。
この時から既に三十年近く経ち、今だに余り改革されていない人間界ですか、神様は、いつもそれを待って居られるのです。
 人間は、老病死苦の為、右往左往ともがいています。
この四苦の苦しみより一歩一歩と外に出る事が出来る様にする為、御教祖様は、人間達の行いを右巻きになる様にする為、
手を引いて下さるのです。信仰をするという事は、その人は無色光を目指して登っているという事になります。
 大祖神大神様は、神の子として人間を創られ、日本を神の国として第一に人間を撒かれました。
第二にイタリアに人間を撒いて、音楽を発展させました。音楽は、ぐるぐると地球を右巻きに巻いていますが、
人間は左に巻いている人が余りにも多い。どうか右巻きに立ち返って欲しい、と御教祖様は切に願われました。
 人間の身体は、小宇宙と言われていますが、構造は、大宇宙、中宇宙と同じ構造で出来ており、
火もあれば木もあり、水木金土の水脈が流れています。
この水脈に五行の現界の徳が流れ込み、右巻きの人のみが、この徳をスムーズにいただけるのです。
日本は、第一の長男国で神国である為、非常に神秘的な霊気が働き、神様に近い為、神様が働きやすく、一番神に近い存在です。
しかし、現在日本では臍曲りの人が多い。臍曲がりは左巻きです。物に囚われ、物に拘ったならば、早く末路が来ます。
心を御教祖様の御教えの方へ向けるならば、人間の肉体は、最高で百六十才迄生きる事が出来ます。
 御教祖様は、鏡で、恐ろしい心を持った人が前に来ますと、たちまち恐ろしい顔になり、
美しい心を持った人が前に来ますと、たちまち美しいお顔になられるのです。
御教祖様のお身体からはピカピカと光を発して居られて、この光に触れた人は、次第次第と罪が剥がれて来ます。
悪い事も出てくるので、こんな筈ではなかったと神を恨んではなりません。
それは、癩病の罪を作る事になります。
大祖教を信仰する人は、御教祖様の近くにいる事と同じなので、注意しなければなりません。
 神様の世界に罪はありません。 唯全てが愛なのです。
人間が勝手に自分を知らないで、危ない橋を渡っているだけなのです。
大祖大神様の御教えに耳を傾け、その真理を知って突進する人は、何百億の罪も一瞬にして叩き割る事が出来ます。
その人の前は、行く所全て浄、何を見てもピカピカと光る光があり、悪行、悪行、裏切りも全て浄化されて、
胸を痛める老病死苦が一つ一つ消えて行きます。
 自分の趣味を生かし、良い言葉のリズムで楽しく生活すれば、行きつまりはありません。
 今日一日を精一杯生き、財運も円満も向上して、神様の世界へ心を伸ばして、物は物で楽しんで通って行く様に、
御教祖様はお教えくださいました。

 元旦に起こった能登地震から、もう五ヶ月目に入りました。
現在、石川県では二百四十五人が亡くなり、三人の人が行方不明です。
能登半島では上水道が今尚復旧していないエリアが残り、不便が長期化しています。
避難者は、四月三十日現在、石川県で、四千六百六人で、半数は、学校や公民館に身を寄せ、ホテルや旅館にいる人が半数居ます。
 国も県も断水解消の為、五月末を目指して頑張っていますが、断水が解消されても、
自宅の配管が破損しているので、水道が通じていない住宅が多いそうです。
 四ヶ月経おっても、まだこの現状なのだと、私は胸が痛くなりました。
日本は今、現在は水は使いたいだけ使う事が出来て何の不自由もありません。
しかし、日本の中で今だに水が不自由な人達がいることを思う時、水が有り余る程頂いている事に、
本当に感謝しなければと思うのです。
神様は良く、火水木金土の五行の徳が人間には必要である、と仰って居られますが、
毎日をこの五行の徳を頂いて無事に暮らしている事が、どれだけすごい事なのかと、改めて思いました。本当に感謝です。

 そして、能登の人達全員に水が届きます様に、心より願っています。

令和六年四月御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、お元気ですか。四月に入りました。四月は、日本では年度始めの月となっています。学校は始まって、学年は一つ上がり、新入生は入学式を迎えます。会社に就職した人は入社式を経て、新しい仕事につきます。
 全て新しい事が始まるのです。今までの嫌な事、出来ていなかった事、全て忘れて新しい出発をして頂きたいと思います。
 四月八日は、お釈迦様のお誕生日です。今年は、桜の満開が四月八日に重なって、花祭りに相応しい日となりました。お釈迦様は、大祖神の右に仕える神様で、イエスキリストは左に仕える神様です。イエスが、神の道を説きながら、十字架にかからねばならなかったのは、中間所の先祖の事を説かなかったからです。
 人間が背負っている罪というのは、半分は自分が犯した罪で、半分は先祖の犯した罪と言われています。それ故、先祖の罪の在処を知って、中間どころの成仏しない御先祖に対し、しっかりと徳を送って先祖の悩み、苦しみを解かねばなりません。そして、中間どころに居て、成仏しない先祖を、その上の天国に送らねばなりませんが、その因果法を説く為にこの世に生まれて来たのに、中間どころを説かず、霊界を抜きにして、神の子として天と地のみを説いたのです。因縁により、先祖の罪の汚れにより人間達が苦しんでいる、その道を説く為に、この世に産まれさしたのに、それを教えなかったのです。人間としての為すべき事を教えず、天界の神そのままを教えたのです。それは一見、美しい事の様に見えますが、中間の先祖が遮っているので、人間は日の光を見る事ができません。この神の使命を果たさなかった為、処刑される事になったのです。 よって、本当の罪の無い世界に行きつくには、まず中間どころの先祖を浄め、後半分の自分の心と身を清めねばなりません。ちなみに、イエスの魂は、元々が神の魂である為、昇天された後は、天界に戻られて、元の位置に戻られたそうです。
 人間は各々、自分の徳により、着物を貰って産まれてきます。地獄以下より産まれて来る者は、黒い着物を着ています。五段より七段の人は、白い着物、七段以上八段までは銀色の着物、八段から九段までは金色、その一番上は無職の着物を着ています。この無色の着物を着る人は、非常に少ないと申されました。イエスやお釈迦様は、この無色の着物を着て生まれて来られたのですが、イエスは処刑され、釈迦は、その当時は良かったのですが、時代が進むにつれ、教を曲げて曲げて、この世の人間の為の教を、あの世の行った時の教に曲げてしまったのです。
 聖典には、「心を清め身を清め 祈れよ大祖と一つになれよ」と教えて下さっています。心は中間どころで、先祖を上げれば上げる事が出来ますが、自分の身は自分でしか上げる事が出来ません。自分は、神の御心に反した所は無いか、方位を犯してはいないか、一つ一つに足を踏みしめて考え、心も身も清めながら進む事が、自分の身を清める事となり、上仁上がることの出来る一番の早道である事を、この時教えて頂きました。

令和六年三月御神話解説

大祖教 御神話解説

 三月に入りました。皆様お元気ですか。
三月十一日には、御教祖様が昇天なさり、東日本大震災も、三月十一日に起こり、
この大祖教、お日本、又世界全体に取りましても、今自分が生きているという事の意味を深く考える時であると思います。

 先日、三月一日に。御本部におきまして、家族三人の祈願祭をさせて頂きました。
本部の太鼓は、以前も申し上げた様に、神様の御神意の働く太鼓で、最初はボコボコと少しも響きませんでした。
しかし、一日のお勤め、お禊場のお水の取り替え、そして家族の祈願祭と進むうち、太鼓は普段通り良く響く様になり、私はほっとしました。
家族三人とも、体のあちこちに故障があり、困っていましたが、この祈願祭により、道が開きました。生きる道を開いて頂いたと思います。

 地上一と言われる御教祖様の説かれました大祖教の御教えを本当に生かす為には、教典の内容を十分に理解している事が大切なのです。
この時、教典の十一「神は人間の罪を赦す」十二「神は人間に罪をきせぬ罪には罪をきせるぞよ」この二つについてお話し下さいました。
現在の人間は、到底解け切れない罪の中に落ち、もがき苦しんでいます。
あんなに良い人が何故、という事があまりにも多い。それは罪を罪と知らずに犯して、その罪の中に落ちてしまったからなのです。

 このままでは人間は救われず、地球は自壊の恐れがあり、この地球、人類のみならず生物を救う為、大祖神自ら、この現界に降臨されたのです。
信仰は、心を上げる為にあります。自分の仕事に関しても、真の仕事の意味、価値を分からねばなりません。
主婦は主婦、主人は主人で、自分の仕事、役割は、熱心に一生懸命やり、人間同士はお互いに手を繋ぎ、神様に、感謝と共に生きる事が大切なのです。

 人間には、「あ」から「ん」迄四十八通りの修業があります。この内、一番の「あ」というのは笑いです。
笑いは竹冠で、これは竹の如く、大地に根を張って子孫を繁栄させよ、竹の如くに、自力の努力をするという意味です。
竹の下に「の」とあるのは、これは野の人、野の人間を指しています。
そして、その下の大の字は、大なる神の御心に叶う様にという意味を持っているのです。

 「あ」の笑いを忘れずに、例えば「お」の修業ならば、お掃除がその修業です。神様からご覧になれば、職業に貴賤はありません。
その人其々に持った仕事があり、その人の修業や持っている罪により色々の位はあっても、心より喜んで、自分の仕事をすることが出来たら、
その人一代で心の段階は、五段や七段、或いは、四十七段全て上がる事ができるのです。

 しかし、中間に於いて、先祖や自分の犯した罪により、途中で、災難にあったり、命を亡くしたりします。
その時にその人の事を笑うのは、本当の信仰ではありません。
不幸の出た時は、お互いに慰め合い、助け合ってこそ、本当の信仰です。

 一番親が気持ちを寄せるのは子供ですが、親子は一世で、この世限りです。夫婦は2世で、この世とあの世です。
主従は三世と言われていますおが、しかし神縁は永久です。何回生まれ変わったとしても、その縁は無くなる事はありません。
大祖教の天使信徒は何代か前に御教祖様と出会われて、又この世で出会って神縁を結ばれた方ばかりが集まって居られるのです。

 御教祖様は、この時お身体を悪くなさって居られましたが、この御神話をこんこんと説かれて、
天使信徒が、心を一つにして、笑いを以って生活をし、仕事に感謝し、先祖に尽くして神の恵みを喜ぶ様に、
そして神と自分のみでなく、人間同士、信者同士も手を取り合って、助け合って行く様に諭されたのです。

令和六年二月御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、お元気ですか。二月に入りました。先日、梅の花がチラホラ咲き始めているのを見つけました。
まだまだ寒く、雪もちらつく中で、しっかりと春を感じて咲き始める梅の花に自然の摂理を創った神様の妙妙の偉大さ、神秘さを感じるのです。
御聖典の松竹梅の道にも唄われている如く、その姿は気高く、美しく、優しく、寒風の中に凛として咲いています。
人の心もかくあれよ、と教えてくださっています。まさに心を洗われる思いです。

 今年は、元旦から大地震があって、お正月の浮ついた気分が、一辺に吹き飛んでしまいました。
年周りも、還暦という如く六十年が一周期となっていて、六十年前の辰年を見てみると、この年も大変な年で、龍が火を吹く年となっています。
地震や火事は、この火の関係です。

 能登の地震も、一ヶ月が過ぎましたが、まだ水道が復旧しておりません。
四月位までかかるという事ですが、トイレやお風呂も本当に不自由な事で、普段何も思わずに水道の蛇口を捻って、
使いたいだけ使っている生活が、どれだけ有難いことかと、しみじみ思っています。
電気にしても、今は復旧しているそうですが、今の生活では、一日でも電気が止まれば生命に関わる危険が幾つも出てきます。
御教祖様より、よく人間は感謝が足りないと言われましたが、今回の事で、如何に有り難さに麻痺してしまい、
傲慢になっていたのではないかと、反省しました。

 能登は、積雪の多い土地なので、住んでいる人は、皆我慢強く、そして人に優しいと皆口を揃えて言います。
震災の不自由な生活も、非常に辛く体に応えるものであると思われますが、テレビに出て来る人は、皆淡々として、事実だけを述べています。
そして非常に家族の事を思いやり、周りの人達に気を使っています。

 御聖典に
「山を移み(一飲み)岩をも通す大なる信仰あらむとも 愛の泉を知らぬなば 神は出ぬよ 心悟けば大無我一体なり(こころみがけば神来たるなり)」
と申されている様に、人を思いやる優しい心は、大切で、いくら神様にお祈りをしても、心よりお願いをしても、神様は働けないのです。

 少しずつ、復興に向けて人々は動き出していますが、我慢強く、心優しく、努力を惜しまない輪島の人達には、神様は働かれて、
復興も、どんどん進むと思います。一日も早い復興を祈っています。

令和六年一月御神話解説

大祖教 御神話解説

 明けましておめでとうございます。卯年から辰年になりました。
本年は、元旦に能登半島一帯が、大地震に見舞われました。前代未聞の事です。今年はどんな年なのか、非常に知りたいと思いました。
人間にも還暦というものがありますが、神様の世界も六十年を一つの単位として、回っています。丁度六十年前の御神話がありましたので、本日はそれを元にお話しさせて頂きます。

 昭和三十九年一月一日の御神話からです。お手持ちの方は、是非お読みになって下さい。辰は龍とも言われて、一年が四季のある如く龍にも四通りあります。
そもそも辰と呼ばれる様に成るためには、海に千年、山に千年、川に千年、三千年の修業を死なければ、辰と呼ばれる様にはならないのです。
雨の日も風の日も、人間の罪に汚されながら、一心不乱に用を成し、大祖大神様の創られた右巻きの道を学び、行をなさるのです。
 人間は、自分のした事を認めて欲しい、自慢したいのが人の常ですが、龍神様は、決して自分のした事を表に出しません。
守護して下さる竜神様は、人間に徳をやろうと思われたら、その人間の犯した罪を自分の身に振り替えて、浄めの行をなさるのです。
そして、苦労をして人間に徳を与えた事に対して、自分がして上げたとは、決して言わないのです。陰徳の龍は、決して表には出ないのです。
陰で苦労をして苦労をし抜いて、三千年の行をされるのです。御守護を受けている人間は、決してこの事を忘れてはなりません。

 辰年は、四通りの龍が四季を通じて働かれますが、特に春の龍、昇龍が六十一年目に龍登る歳として、回ってます来るのです。
本年、令和六年は、この六十一年目にあたり、この昇龍が守護されるのです。この登り龍は、非常に勢いがある為、生優しくはありません。
良ければ良い、悪ければ悪しで、徳をいただける人は非常に頂ける。頂けない方は、一辺に落とされるのです。
吹上げられるか、吹き落とされるか、はっきりしています。中途半端がありません。

 海山野の現界の徳も同じく、貰える人は、とんと飛び抜けて貰える。貰えない人は根こそぎ落とされます。
本年は、自分の心決めが大事で、しっかりと神様の道に沿う様に心を決めねばなりません。
龍神様の三千年の行は最低ラインで、人間界で言えば、それは小学校程度で、最高の方は、何万年も行をなされるのです。
本年の登り龍は、この何万年も行をした方で、よって、力も強く神通自在の力を持て居られます。

 だから非常に厳しい、道も険しい、けれども神様に心を合わせる様に全力を注げば、天をも貫き、望みは叶うのです。
棚ぼたをねらっても、餅は落ちて来ません。本年は、特に竹の努力が大切で、努力に努力を重ねて進めば、望みの所に行きつく事が出来ます。
中途半端な気持ちで落とされた人は、次中々浮かぶ事が難しくなります。

 本年は、龍が火を噴く年で、火の精の働きが非常に強いのです。地震も火、火事も火、又それと共に難もかかれば、商売の方も火の関係が儲かるのです。
ガソリンや灯油、その他、火の関係で上がり下りも大きくなります。火の燃える所に風が起こ、水が発する事となります。
火と風と水、今年はそういう年になっているので、その理を知って上手に使う事が、その人の徳となります。

 海山野のうち、一番現界で不足している徳は海の徳です。海の徳というのは、人の道と通貨です。
通貨は、持っている人は沢山持っていますが、持っていない人は全然持っていません。バランスが取れていないのです。
海の徳は、生まれる徳です。相手をかす事が生む事で、育てる事に繋がります。
自分も育ち、人も育ち、お互いに人助けをする。お互いに良い方へ手を引いて行く。貴方も助かり、私も助けられたという事になります。
お金儲けだけの助け合いならば、一万円は、一万円だけの儲けで、神様の梅の道に手を引いてあげるならば、現界、霊界共に清める事が出来て、その徳は約十万倍の徳となります。

 特に本年は、海の徳を積む様に心掛ける事が、一番上に登る早道である事を、この時教えて頂きました。

令和五年十二月御神話解説

大祖教 御神話解説

 十二月に入りました。皆様お元気ですか。今まで夏だった季節が、一気に冬となり最低気温が十度を切って、最高気温も今日は十二度までなのだそうです。早いもので、もう一年が過ぎようとしています。コロナも少し収まって、第五類に移行となり、今まで禁止されてきた対面の忘年会や、クリスマス会が予定されています。賑やかで、楽しい事ですが、以前コロナもインフルエンザも燻っているので、注意が必要です。
 この一年を振返って、良かった事、悪かった事、色々ありますが、ああすれば良かった、こうすれば良かった、と後悔すること事もあります。御教祖様は、済んでしまった過去の事を色々と思い煩わず、未来を憂う事無く、今の今を大切に精一杯生きる事が、一番と教えて下さっています。
 十二月は、何かと気忙しく、忙しくなって来ますが、忙しいからと言って心を無くしてはなりません。今月の十六日は、年末大祓となっておりますが、大祓の大は、大祖大神様の大で、祓いは、神の心を友とせよ、というのが大祓の意味なのです。十二月の忙しさは、心を無くしてしまいがちですが、心を忘れると、真に大切なものを取り逃す事になるので、忙しさに取り込まれる事なく、神様に心を合わせる事が大切です。
 今大祖教では、人数が少なくなって来ていますが、御教祖様は、少なくとも良い者だけが残った。砂金の様なものがお前達であると申されています。ですから、己を安く買ってはなりません。自分の価値を高く測って、自分の事は後回しにして神様の道に使う事が出来たら、徳は倍になって返ってきます。神様の道に進む人は、滅びません。生きる力をいただけるのです。そして、行く道に光がさします。
 この一年は、戦争のニュースで明け暮れた気がしています。ウクライナのロシアの侵攻、ハマスとパレスチナの戦争と、日々まともに直視出来ない場面がテレビのニュースがで流れています。自然災害で、人間が沢山亡くなるのはどうする事も出来ないけれど、それだから尚、人間が人間と争って命を落とす様な事は、絶対あってはなりません。数千の又は万単位の人の命が亡くなったニュースを聞けば、折角神様から頂いた命を、何故そんなにむざむざと捨てられるのかと、無念に思いました。どなたもそうだと思います。神様は、絶対そんな事は望んでおられません。
 パレスチナとハマスは、停戦九日目に入り、もう一日停戦を伸ばして、人質の交換、ガザに必要物質の搬入、医療品の運び込みを加速しようと、間に入ったカタールは頑張っています。本当に少しでも停戦が続き、たとえ一人でも二人でも命が助かって欲しいと願わずにはいられませんでした。御教祖様の御教えの大きな柱が、世界平和です。
 ハマスとパレスチナの停戦の仲介役をしたエジプトやカタールは、それは大変な骨りをして、停戦に漕ぎ着けたそうですが、本当に有難うございます、という気持ちです。聞けば、パレスチナの市民の大半は、停戦を望んでいて、その国民の声に押されて、自分の政権の人気が下がるのを恐れて停戦する事となったそうです。だから、大勢の人が戦争反対の意思表示をするのは大事な事で、その声が大きくなって戦争終結へ向かうといいなと思っています。来年は、戦争のない平和な世界となりますように、願っています。