過去の御神話解説

月ごとのお話

令和七年三月八日御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様お元気ですか。梅の花も美しく咲き、水仙の花も庭一杯咲いて、春が一足飛びにやって来ました。
本日は、昭和四十年三月八日の御神話より、お話しさせて頂きます。

 御教祖様は、一度地獄に落ちて、昭和二十三年三月八日に、復活なさいました。
御教祖様は、神がかりの人で、余りにも気高く清い人なので、この世の嘘、仮面の世界に耐えられず、
現実は汚く、心は清く、水と油の如く、その摩擦により、身体が滅びてしまったのです。
地獄の底で、御教祖様は「自分は、あれは悪い、これは悪いと悪い事ばかり見て来た自分は罪人であった。
良い所を見ないで、悪い所ばかり見てきた自分は罪人であった。ああ、すまなかった、許して下さい。」と、
浮かんで来る人、一人一人に対して、詫びて詫びて詫びぬかれて、血の涙を流されました。
そして、血の涙も出なくなった時、御自分の罪を捨て切る事が出来て、大祖大神様のお召しにより、
この現界に、光となって人間界を救済する為、戻られたのです。
それが、昭和二十三年三月八日だったのです。

 生まれ変わって見ると、何もかもが美しく見えて来ました。
少しの事は色々とあっても、その人の良い所が見えて来ます。
あの人もこの人もこんなに良い所のある人だと言う事が分かってい来ました。
全てが皆美しく、この世は天国界となったのです。

 聖典に、「既に無限奥万円を与え置きたるに 汝顧みて懐を見られよ。」と申されています様に、
人間は神様より衣食住の徳を頂き、どなたも自由に衣食住の徳を使える様にして下さっているのです。
その徳を頂く為には、天と人が手を結ばれていなければなりません。
今の人間は、神の心を知らず、先祖の心を知りません。だから自分の思う様にならないのです。

 人間は、各々自分の持ち場持ち場を、真言を以ていかねばなりません。
真言とは、良い言葉、良い言葉とは良い心、悪言を止め、良い言葉と良い心を以てすれば、この世は美しくなって行きます。
人間の行為が衣食住共、本当に美しい住まい、本当に美しい食べ物、本当に美しい人ばかりになれば、
多少の暗い影も消えて行ってしまうのです。
人間は、生きているうちに、天国界になり、本当の幸いを得なければなりません。

この天国界を邪魔するのは、「わしが、わしが」と言う人間の心です。

 霊界での鷲は、鳥の格好をしているけれども、人間が変死をする時には、この鷲が命を取りに来るのです。
これは、地獄行きです。
「わしが、わしが」と思う心を止め、神の御心に合わせ、御先祖の御心に合わせて、この現界を渡って行くならば、徳は自ずと頂けるのです。
天の理、地(先祖)の理、人の理に合わせて、人は持ちつ持たつ、神作った御心により地上から与えられる物に感謝し、
一つ一つ当たって来るものに心から感謝できれば、徳はますます大きくなるのです。

 そうして次第次第に今日より明日、明日より明後日と、すればするだけ向上して、運命も下賤の性であっても、品性も貴賓となり、
貧どんの性も防府となり、富んで行くのです。
この世を天国界にする様に、自分の持ち場持ち場を向上させる心定めが大切だと、この時教えて頂きました。

令和七年二月八日御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、お元気ですか。立春が過ぎて数十年ぶりと言われる寒波がやってきましたが、皆様のところでは如何だったでしょうか。
お見舞い申し上げます。
本日は、昭和四十一年(大祖護光天大神様の御教の第四巻)の御神話よりお話し申し上げます。

 地上一と言われる御教祖様の説かれた大祖教の御教えを、本当に生かす為には、教典の内容を十分に理解している事が重要なのです。
この時は、教典の十一、「神は人間に罪を赦す」教典の十二、「神は人間に罪をきせぬ 罪には罪を着せるぞよ」この二つについてお話し下さいました。

 現在の人間は、とうてい溶け切る事の出来ない罪の中に落ち、もがき苦しんでいます。あんなに良い人が何故、という事が余りにも多い。
それは、罪を罪と知らず犯してその罪の中に落ちてしまったからなのです。
このままでは人間は救われず、地球は自壊の恐れがあり、この地球、人類を救う為大祖大神様じきじき現界に降臨なさったのです。
御教祖様が、この現界に降臨なさる迄には、永い計画があって初めてこの下界に降臨なさいました。
それは、一代間五十年と計算して、五十一代間、約二千五百年の歳月がかかっています。

 御教祖様は、至らぬながら必死の思いで付いて来た天使、信徒を労われ、その徳を高く評価されました。
しかし、この地上三十億の人間がおり、その人間全てが大祖護光天大神の御心に飛び込む事が出来たら、この地上も幸となり、
自壊も防げるけれども、余りにも罪深く、幸いを願いながら不幸へ不幸へと進む為、その罪が消せないと、御教祖様は嘆かれました。

 中国では、儒教の教え、日本では男尊女卑の風習があり、それはその国の人間の都合によりその風習に従ってきました。
本当は、この様な風習にとらわれてはなりません。
女より男が優れていると言う事はなく、白人が黒人より優れていると言うこともなく、人間は神様の目からご覧になれば、皆平等です。
一国の中でも王様から大臣、庶民とある様に、各々の国も各々の役割があり、位があります。
日本は、人間の額に当たる所、地球上の一番敏感な所に生まれています。そして、一番上の長男国として誕生しました。

 一番神に近い国でありながら、日本は過去、仏教に曲げられ、キリスト教に曲げられて今まで来ました。
昭和二十二年に御教祖様は、神戸にて開教なさり、この大祖教の教の道を解かれました。
昭和四十一年のこの時、神様の御計画では、既に次男国、三男国に布教に行っている筈でした。
しかし、日本が余りにも悪風習、余りにも歪んでいた為、御計画通りには行かなかったのです。
大祖教は、罪や因縁を解くのが本髄ではありませんが、その罪を解く勤めとして、現界では四十八通りの勤めがあります。
あいうえおのあ行、かきくけこのか行、さ行、た行と順番に行って、ん迄、五十一音から天地人の三つを抜いて四十八科目、
生まれて来る度に、この中の一つ一つを就業して学んでいるのです。

 人間の身体はものなので、無茶をすれば痛みます。それを信仰しているのに、あれは何事かと不振を抱き、神の御守護を疑う人は、不徳極まりない人です。
人に不幸が来た時は、笑ってはいけません。不幸が来たら、お互いに慰め合い、
物がなければお互いに融通しあって手をつなぎ合ってこそ、地上きっての最高の教と誇る、大祖護光天大神様の御道です。

 信仰は、心を上げる為にあります。仕事も真の仕事の意味、仕事の価値を分からねばなりません。
主婦は主婦で主人は主人として、自分の仕事に熱心で、一生懸命になり、人間同士はお互いに手を繋ぎ、神に感謝と共に生きる事が大切なのです。
人間には、「あ」から「ん」迄四十八通りの修業がありますが、この一番目の「あ」は、笑いの修業です。
笑うという字は竹冠で、これは竹の如く大地に根を張って、子孫を繁栄させよ、竹の如く子孫を栄えさせよ、竹の如くに自力の努力をせよと言う意味です。

 竹の下にノとあるのは、これは野の人、人間を指しています。
そして大都いう字は、大なる神の御心に叶う様にといいう意味を持っているのです。
「あ」の笑いを忘れずに、例えば「お」のお掃除がその人の仕事であっても、神様からご覧になれば、職業に貴賎はありません。
その人その人の持った仕事、その人の修業や罪により、色々の位はあっても、心より喜んで自分の仕事をすることが出来たら、
その人一代で五段や七段、あるいは48段まで上がるかは、その人の心次第にかかっています。

 例えば、今世の仕事が「は」の仕事であったとします。
これは、お針業の人の仕事です。
このお針の仕事を、収入があると喜ぶだけなら、それは偸盗でないと言うだけの事となります。
真に自分の仕事の価値を知って、心より神と先祖に感謝出来ねばなりません。
喜びの糧として、生きる実りの百倍の糧として、自分がそれを感じる事ができるかどうかなのです。
そこが一番大切な所です。

 釈迦も、八万何千巻のお教を説かれましたが、この真の笑いの境地に達した人が、仏門で何人あったでしょうか。
イエスキリストも十字架にかけられて、それは神の御心であったとは言えません。
本当に熟して柿や栗が木からぽったりと落ちる如く、天寿を全うして喜んで逝く事こそが、大祖神の御心に叶う事なのです。

 しかし、中間に於いて先祖や自分の犯した罪により、途中で災難に会ったり、寿命が亡くなったりします。
その時に、その人を笑うのは、本当の信仰ではありません。
不幸の出た時は、互いに慰め合い、助け合ってこそ、本当の信仰です。
例えば、子供はいくら数が多くても、自分の思う通りにはなりません。
親は子供に思いを掛け、その思いも人間の感情として一番強いと言われていますが、親子は一世で、この世限りです。夫婦は二世、この世とあの世です。主従は三せです。

 しかし、神縁は永久です。何回生まれ変わったとしても、その縁は無くなる事はありません。
今、ここにおられる方は、何代か前に御教祖様と出会われ、又この世で、御教祖様と神縁を結ばれた方ばかりが集まっておられるのです。

 御教祖様は、この時身体を悪くしておられましたが、この御神話をこんこんと説くかれて、
天使信徒が心を一つにして、笑いを以て生活し、仕事に感謝し、先祖の尽くし、神の恵みを喜ぶ様に、
そして神と自分のみでなく、人間同士、信者同士も手を取り合って、助け合って行く様に諭されたのです。

令和七年一月御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、明けましておめでとうございます。
新しい巳の歳がやって来ました。今月は、丁度六十年前の昭和四十年の巳の年の一月元旦の御神話より、お話し申し上げます。

 新年の祝辞で、理事長が申し上げた通り、本年は六十年前の巳年と同じ戊巳と称して、土から生じた精気が働く年となっています。
土には金銀が含まれており、それ故、金の精が良く働くのです。

この金の精の守護を受けられるかどうかは、その人間の心次第です。
この世を勝ち抜く為には、先ずゼロにならなければなりません。
今年は、生命、円満、物質とある中で、物質の精気が働くのです。
海山野で言うなれば、海です。
この巳年を迎える度に、良い人は幸が増します。
巳さんと言っても、神の眷属もあれば、毒蛇もあるので、物の道理を間違えず、頭は頭、足は足で逆さまにならない様にしなければなりません。
人間の魂は、金の勝るダイヤを撒いてあるので、その真性を発揮して、あらゆる邪に打ち勝つ事が出来ます。
些細な語感の世界に拘らず、「コラと言われても、「はいはい」と答えて丸く収め、如何なる事が出てきても、丸く収めて行く事が徳を頂く鍵になります。

 百八つの煩悩と申しますが、この百八つの煩悩を消すことが出来た人には、火水木金土の五行の徳、戊巳の金の精が、どんどん徳を送ってくれます。

 昨年は、辰の年で、人間界を大きく裁かれましたが、本年は、経済界、物の世界を裁かれます。
中途半端に行ける人はなくて、伸びる人はすばらしく伸びる、潰れtるものは潰れるのどちらか二つに分かれます。
五行では、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生じ、そして木は又火を生じるという様に、クルクルと回っています。
だから、ルートに乗ったら、逆流しない様に、自分の心を正す事、そして入れ物を大きくしておく事が、キーポイントとなります。
天文に於いては、火、水、風、が三等分されていて、それ故大きな水害、大きな火災、大きな台風は、無いそうです。

 只々、経済界は、混沌とするので、これをしっかり頭に入れて、神様のお道を違えずに、正の世界に徳を積み、神様と共に昇って行くならば、
幸いは、掴み取る事が出来ると、御教祖様は教えて下さいました。

 一月十七日は、阪神大震災の日です。三十年の月日が流れても、今尚悲しみにくれる人がたくさんいます。
そして、生き残った人は、今生きている事がどれだけ幸いなことかを気づくのです。
御教祖様は、今生きている人は、運の良い人である。生かして頂いている事は、本当に有難い事で、生かして頂いている人は、生かして頂いている義務と責任がある。
それを今、果たそうではないか、とおっしゃっています。
亡くなってしまった人の事は、本当に残念な事ですが、今生きている人は、生きている事に感謝して、亡くなった人の分まで、精一杯幸せに、生きる価値あるものとして、生きて行きたいと思います。

令和六年十二月御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、お元気ですか。今年ももう十二月、納めの月となりました。
長く続いた暑さも、ようやく落ち着いて、急に冬になった感じがしています。

 本日は、昭和四十一年十二月八日の御神話から、お話させて頂きます。

 この日は、天一天上と言われて、眷属の神神様は、天に帰って、人間のした良い事、
悪い事、それからどの程度、その人の心が伸びたかを、全て大祖大神様にご報告なさるのです。
天一天上は、年に六回あります。
この日は、御正典の三十七番、
「肉を念じれば死が来たる
 例を愛せば円満生命の完全なる(保存なる)己が為地上に積んだる物質(宝)をば錆びて古びて盗まれる
 天に積んだる施済宝は永久完全神徳光
(われまもるなり)」
これについてお話し下さいました。

 人間は、神を愛せば正となり、自分の肉を愛せば邪となりますが、知らずに肉を愛している人が数多くあります。
知らずに滅びる方を愛して、落ちて行ってしまうのです。
邪は、いつもはびころうとし、神様は、人間を正の方へ引っ張ろうとして、いつも戦っておられるのです。
人間は、首から上が正の部で、首から下は肉の部です。
上下とも三つずつ穴がありますが、首から上の三つが生命、円満、物質の三つを正に入れる役目、下の三つはそれを浄化する役目をしています。

 そこで、間違えた人は、首から三つの穴に邪を入れて、首から下も邪に犯されて上も下も全滅するのです。
首から上は運転役で正をキャッチするか、邪をキャッチするかのどちらかで、首から下はそれによって動かされているのです。
人間の肉体には五臓六腑があり、人間の頭のキャッチによって、火水木金土の五行の徳が入るか、入らんかが決まるのです。

 火の蔵は肺臓で、水は膵臓、木は心臓で、これが中心となって、天から棒がさしてあるのです。
天は大宇宙、中は中宇宙、地球も先祖も入ります。小宇宙は人間で、天より中宇宙を通って、人間、小宇宙の心臓に突き刺してあるのです。
このルートを通って、生命力、円満力、物質力の徳も天より送られて来るのです。
五行の内、金は肝臓に当たります。この年の年回りは、金星の守護する歳で、金星が近寄って来ると、神の力が非常に強く無なり、
悪しきものは悪く、良いものは良いと、はっきり分かれるのです。

 六十一年目に来るこの歳の丙午の年は、金星の働きが非常に強く、この人間界を清浄にする年で、
良いものは良い方へ、悪いものは水に流されて掃除されてしまうのです。
この金星の感化を受け、それが肝臓に伝わり、五臓の悪い所を修理するのです。
もう一つ、五行の内、土性というのがありますが、これは臓器で言うと、脾臓です。
土性の「ひ」というのも大切で、慈悲の「ひ」で、慈悲が強いか、そうでなく薄情な人かを、司っているのです。

 正義感が強すぎて融通の効かない人は、人間的に冷たいと言われたりもしますが、
それも又、本当は不足で、ゆったりとした、ぬくぬくとした、慈悲心に満ちた、悪人も、悪い事をしたくなくなる様な包容力が本当です。
ゆったりとした生命力、ゆったりとした物質力、ゆったりとした円満力が良いのです。

 まず、精神力から鍛えて、あってもあっても無い様な、物欲しいいじましさは捨てて、
豊かな心に鍛えれば、その様な入れ物が出来たら、嫌が応でも三徳は流れ込む事になっているのです。
やれば入る、努力したら、しただけ入るのです。ポイントは、頭の三つの間脳を鍛えて、言う事、見る事、聞く事を正にする。
悪を聞いても、良い方へ返す。口は良い言葉を言う。悪いものを見ても、良い物と交換する。
この三つの言い方、見方、聞き方を正の方へするならば、三徳の備わった神の子になれるのです。

 そうなると、普通は暗い頭の後ろから光が出る様になるのです。
御教祖様は勿論、阿弥陀如来や、イエスキリストの様に、背中からピカピカ光る様になるのです。
この三つ、言う、聞く、見るを見直し、聞き直し、言い直しをして、いらない事は言わない、いらない事は見ない、いる事を見て、いる事を聞き、いる事をいう。
無駄を止めて、その修練が出来たら、九段から十段へ繋がるのです。光がさすのです。

 その様な人物になfれますと、不思議と人は救われ、不思議と家庭は救われ不思議と人は言う事を聞き、
不思議と商売繁盛、不思議と健康で、不思議と栄える、不思議と良い子が出来るという事になるのです。
人間は一人一人は小さい存在ではありますが、侮ってはなりません。
それは大宇宙を通じて、生命、円満、物質の芽なのです。その芽を大事に育てて行くようにと、御教祖様はこの御教えを説いて下さったのです。

 先日、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が、ノーベル平和賞を受賞しました。
私達、日本人にとりましても、唯一の被爆国として、とても嬉しい事でした。
大祖教にとりましても、原水爆の禁止と、世界平和は、御教えの大きな柱で、大祖大神様も、御教祖様も、とても喜ばれたと思います。
代表の田中さんは、92歳とは、とても思えない程、しっかりと色々なお話をされていました。
受賞された事が、一層の励みとなり、元気を貰って今までより一層活動して、若い人に伝えて行きたいと、話されていました。

 昨今は、ロシアや、北朝鮮は、何かにつけて核をひけらかして、脅しの道具にしています。
核は、決して使わせてはなりません。
この受賞を機にして、平和に対する声が世界中で大きくなり、ロシアのウクライナの侵攻、又その他の各国の戦争も、止める様に、私は強く願っています。
どうか来年は、戦争の無い、平和な一年になります様に。

令和六年十一月八日御神話解説

大祖教 御神話解説

 今月は、御教祖様のお誕生月で、御教祖様は、新暦で十一月十四日の御誕生です。今月の十六日に御生誕祭では、心よりお祝いをさせて頂きたいと思います。
 本日は、昭和四十七年十一月八日の御神話より、お話させて頂きます。御教祖様の御教えの御本は、十一巻ありますが、本日は、第七巻からです。
 月日は、矢の如く巡って行きます。人間は心も身体も歳を取って行きますが、老いぼれてはなりません。しかし、現代では、心に悩みを抱えた人が殆どです。病や生命力の無い人、又家庭不和や仕事や社会全体に不円満な人、又必要な物質を頂けない人など、大勢います。生命、円満、物質のどれが欠けても悩みの種となり、笑えない状態になります。これを笑える状態にするにはどうすれば良いか、考えねばなりません。
 笑うという字は、竹冠が付いていますが、竹は、人間の努力を現しています。竹は、大地に深く根を張って、子孫繁栄を現しています。その下のノの字は、野に掛けて人間の世界を現しています。人間界で努力をして、大なるところの笑いを現界に於いて、しなければなりません。この精神を以て笑えば、闇は消えて、不幸が来る度に、この笑いを忘れずに笑って改善し、次も又笑って改善していけば、段々と上がって九段
迄上がる事が出来るのです。
 今、世界では、残酷極まりない戦争が、あちらこちらで起こっています。それは、怒り、怒る、不平不満や、欲望、嘆きの罪の写しなのです。速くこれを消さねばなりません。せめて神に一番近い日本から、この状態より抜け出なければなりません。しかし、今の日本も、食べる為、飲む為、目の前に現れた感覚に囚われて、神の笑いを忘れています。御教祖様は、色々の事に囚われず、神の笑いを求めて、徳のある方向へ進んで、日本が、神そのままの国になれる様、速く進んで欲しいと、御教祖様はこの御神話を説いて下さいました。
 うちの家では、家族が、大きな病気にかかってしまいました。目の前が真っ暗になった気がしました。病気平癒の祈願祭を、かけまくりましたが、手術も、出血が止まらずに三回も止血の手術をやり直す羽目になりました。神様のお知らせでは、命が無いと言われていたので、兎に角、今の所命があって、手術が終わったので、ホッとしています。実際の所、霊眼の開いていない普通の人間は、神様の本当のお働きを知る事ができま出来ません。しかも、神様は、これこれしかじかをしたとはおっしゃらないので、余計分からないのです。
 しかし、今回の場合、生命が無いと言われて、必死で祈願祭をし、出血が止まらなくなったりしましたが、生命は助かりました。「大難を小難に」と私は神様から言われて、納得しました。そして、本人は元気で、食欲もあり、仕事にも全て前向きである事に、今は心から御礼を申し上げたいと思います。まだまだ治療は続きますが、心がブレない様に神様に心を合わせて、しっかりと治療をして再発の無い様に、頑張りたいと思います。

令和六年十月八日御神話解説

大祖教 御神話解説

 暑さ、寒さも彼岸までと昔から言われている如く、彼岸を境に、気温も徐々に下がり始め、明日から十月に入りますが、朝晩は、めっきり涼しくなりました。

 本日は、昭和五十年十月八日の御神話より、お話させて頂きます。
人間は、日々の生活に於いて、心が上がったり下がったりしますが、それらは皆、神様のテストなのです。
そのテストというのは、仏教で言う十善戒、十か条の心の戒めです。この十か条の内、特に自分の罪に落ちているところが先に出てきます。
殺生が明けるので、多い人は殺生が、邪淫の強い人は邪淫が、という様に。

 私達を守護する神様は、どこに居られるかというと、いつも神様は、私達の中に居ます。
大という字は人間の姿を現しています。足二本は大地を踏み締めて、しっかりと立ち、頭は上に向かって突き出しています。
この大なる姿が人間の本当の姿ですが、現在の人間には首から上に出ていません。神様の世界に届いていません。
大の横線の一は、人間世界の横の繋がりです。
この横線の倫理道徳が、人間の世界で最高の所ですが、この一線を突き出た頭がなければ、生きる神の力は頂けないのです。

 自分を美化する為に言い訳ばかりする人は、大祖教の御教えに於いては、最低の部類です。
大祖教に於いては、仮面は要りません。見栄も要りません。本当のありのままの自分で良いのです。
自分を美化するとか、自分を飾るとか、言い訳とかは一切要りません。裸の心こそが、神様より価値あるものとして、認めて頂けるのです。

 どの宗教に於いても、隠していた事も、この度は一才を懺悔致しますというのが、トップの教えとなっています。
人の前でも、神の前でも、恥も無く、人間世界の仮面は、今日を以て抜き召されと申されています。
自分の心に写っている事が、目の前に出てきます。言い訳をしなければならない人は、それが心に写っています。
「言い訳をやめなさい。」と言われたら「はい、すみません。」と素直に謝って方向転換をする事が出来たら、自分の我を抜いて助けて頂ける、命の繋がる道が開くのです。

 神様より、色々と教えを頂いても、実行出来ないと、何も身に付きません。
この御神話を読ませて頂いて、私も言い訳を止め、神様の言われる事を実行していきたいと思います。

令和六年九月八日御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、お元気ですか。先日の迷走台風では、日本列島全部が巻き込まれて大変な被害になりました。
皆様の所では、どうだったでしょうか。お見舞い申し上げます。
本日は、昭和五十二年九月八日の御神話より、お話ししたいと思います。

 昭和五十二年九月八日は、御教祖様の十年行の最後の仕上げ行となる感謝祭で、
それ故、この感縁謝祭に参列出来た人は、その陰徳により、本人が出来ていてもいなくても、
多少の穢れのある人も、皆同列にて大祖護光天大神様の大学院に入学させて頂いたのです。


 御教祖様は、昭和四十二年三月より、昭和五十二年迄、十年間、御本部おはを出られて、お行をなさいました。
その間、現界の有推為転変の人間世界の中で、地獄の苦しみを受けられたのです。
しかし、神様は、苦しみを苦しみと受け取っては、上仁上がる事は出来ない事、苦しみを楽しみと思ってこそ、
その楽しい中に、生き物は育ち、大きく成長する事を、教えてくださったのです。
苦しみを楽しみと受け取っては、物は滅びてしまい、生きる事は出来ません。
何事も神の思し召しかと、喜べる心に於いて、黒雲も晴天に変わるのです。


 御教祖様は、昭和四十二年三月に御本部を出られました。
週十万人を助ける為、その人の罪を自分の身に振り返る振り替え行をなさったので、
その穢れを落とさなけおですればならなかったのです。
その罪は地獄へ落ちなければならない程の罪でした。
その行の間、味方と思う人が数々の邪魔を致しました。
芦屋のマンションに居られた時は、万博で行き交う電車の音で、体調を崩されて公設記念病院に入院されました。


 その時に、御見舞いの天使が死んだ人を送り出す病院の裏門から入って来て、その度に死神を御教祖様の所へ連れて来たのです。
死神が数十人取り付いて、もうこれで命が切れるか、と思われた時に、お付きの天使が、病気直しの行者を連れて来ました。
そして、その行者は、御教祖様の身体に手をさあっとかざしただけで、死神を全部連れて行ってしまったのです。


 そして、それから御教祖様のお身体は、すくすくと元気になっていかれました。
ここで、七年行は終了され、御本部にお帰りになり、数々の改革をなさいました。
一つ一つ言えば出来上がり、大祖神大御神様の比類無き力の強さを、ここに証明なさったのです。
ここから三年間で、大祖教は生きた宗教になりました。
御教祖様は、した事の無い労働、修養をして、万物を愛して、愛があればものは必ず生き返る事、
死にかけているものも、生き返る事を、実行して見せられたのです。


 聖典に、
「従順無くば我が心実を結ばず 幸福は汝に近し 口にあり心にあり 汝は真実の教えによりて神の如くなられよ」
とあります様に、「はい」と答える従順さは大切で、特に神様の言われる事に対して「はい」と答えられるかどうかにかかっています。
心願成就となる為には、自分の」足りない所を、再度再度改めて、「はい」と答えて進む様に、御教祖様は、この教えを説いて下さったのです。

令和六年八月八日御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、体温を超える暑い日が続いていますが、お元気ですか。
今は、パリ五輪も終わり、日本は、東京五輪を除きメダル獲得の数は、今までの最高になりました。
競技を見ていると、最後まで決して諦めない日本の頑張りに、とても元気をもらいました。
負けそうになりながら、諦めず、粘り強く、頑張り続けて、そうすると勝負の神様も微笑んで、勝利を自分のものにしたのです。
自分がすると決めた事には、決して諦めず、頑張る事が大事なのだと、見ていて本当に勇気を頂きました。

 本日は、昭和四十三年八月の八日の感謝祭の御神話をお送りしたいと思います。
まず、地上の人間は本当に一日を幸せに暮らしているでしょうか。
ただ、物質面の世界のみを幸せの如く追い回している姿が、あまりにも多い。
御教祖様は、今までは物質面と円満が多く、御教祖様は、その事に非常にお疲れになりました。
それには行き詰まりが来ます。

 本当の信仰とは何でしょうか。
折角信仰するならば、行き詰まりの来ない円満でなければならない、行きつまりの来ない物質でなければならない。
行きつまりの来ない生命でなければならない。真に命は尊いとは知りながら、生かして貰っている有り難い事を、皆様は知る事が出来るでしょうか。
粗末にしてはおりませんか。
命の尊さは、嬉しい。命のある所には、円満もある。物質もある。
命を忘れて物質と円満を追い回していたのでは、泣き苦しまねばならん。

 護光天は、本当は分かっておりながら、円満と物質に人間達の欲する方向へ、引きずられつつあったのです。
よって、今修理中です。もう殆ど良くなりましたが、もう元の護光仁ではありません。
神様の申すことでなかったら、皆に頼まれても、動けなくなりました。
ただ神は人間を愛し給うであろうから、わからない時は、いつでも聞いて下さい。
必要な食べ物は与え給うであろう。着るものも与え給うであろう。

 しかし、着物や食物は、潤いであって、神の潤いであって、それが命でない事を知らねばなりません。
神の世界には、穢れは無い。罪は無い。神は無限の知恵をもって、無限の愛を以て、本当に今人間が悔い改めるならば、どんな罪も許して下さる。
どんな深い仏教で言う因果法則でも、即座にお引き取り下さる。

 だがそれは、身も心も物も全部神様にお供えの上でなくてはならない。
自分の物として持ったままでのお供えであってはならない。
自分の物として持ったまま、それは亡者の如く大きな石に重られて、沈んで行ってはなりません。
自分の持たされる範囲で、神はそれぞれの支配下に物も与え給うので、神様の物を自分が使わせて貰えるのです。

 感謝を、どうか忘れないで、大祖護光仁の道を信仰する者は、真の真理の信仰へ向かって下さい。

令和六年七月八日御神話解説


 もう令和六年も半年を過ぎて、海山野開き祭を七月一日にさせて頂きました。
S三十八年七月八日の御神話によりますと、火、水、木、金、土の五行の徳のうち、野の徳は唯一つ水です。
野に出来る食料一切は、野の徳によるものです。山の徳として火の徳の足りない人は、母親を亡くする運命となります。
母親を亡くしては、生命、円満、物質の三つに反応が出ます。

 野の徳の水が無くなったら、地上より水気はかせて、肥満な土地は痩せ衰えて、物は育たなくなります。
家庭に於いても、水の徳が欠けると、大事な母の力は取り上げられて、子供を育てる力は無くなってしまうのです。
よって、野の徳は唯一つ、水のみですが、この水なくしては生物は生きていけません。とても大事な物です。

 五行の徳も、別々のものではなくて、五つのどれが欠けても困るのです。
どれが一つ欠けても、手をつなぐ事が出来ません。現界、霊界、天界の三界をクルクルと回っています。
五行の内、火は土を生じ火は土と手を繋いでいます。土は金を生じます。物質の通貨の元は金、紙幣の元祖です。
土は金と手を繋いで回っています。金は水と手を繋ぎ、水は木と手を繋いでいます。木は火を生じます。

 本日、七月八日は野開きの日で、心臓部に当たります。この野の徳は、いくら神を崇め、先祖に尽くし、先祖をあげても、人間的に徳を積まねば野の徳は頂けません。
野の徳とは、人間的な自分の価値をしっかりと知って、実る方向に努力しなければ頂けないのです。
よって、七月八日の野の開きの日は、水の開き、水の開きは心の開き、水の価値をしっかり知って、水の徳を感謝し、真心を以て神様の御教えに進んでいく様に、教えて頂きました。

 皆さんは、榊の花をご存知ですか。先日、住吉協会と、自宅の神様の両方に、御榊の花が咲いているのを見つけました。
裏側の茎から直接蕾が出ていて、それが次々と咲いて行ったのです。
可愛らしい、半分透明な小さな白い花です。私も初めて見たので、初めはびっくりしましたが、御聖典に、
「道かと思えば道でなし 妙々の真理の花は皆持てる」
とあります様に、榊の花が咲くのは良い事と思って、とても嬉しかったのですが、
考えてみると、現実に見せていただいても、見せて頂けなかったとしても、
神様の世界では、今大祖教を信仰している人は、皆榊の花は、咲いていると思いました。
三年前には、もう閉じてしまう所迄行っていた御本部を、なんとか元の状態に立ち返る所まで、それぞれの立場にて頑張りました。
考えてみますと、本当に良くここまで来たなあ、と思います。
今大祖教にいるお一人お一人に皆榊の花は咲いていると思います。
これからも、健康に気を遣って、頑張りたいと思います。
よろしく御願い致します。

令和五年六月御神話解説

大祖教 御神話解説

 本日は、S35、7、8のの御神話より、お話しさせて頂きます。
御道1の五、「生きたる喜び知るならば 完全(一つ一つ)が神の芸術(わざ)愛の宝は無尽蔵」御聖典のこのお言葉について、お話下さいました。

 この世にある全てのものは、神様の創られた芸術品です。生命あるもの、人間、動物、植物、又生命の無い衣食住の全て、神様が作られました。
ですから、コップ一つにしても感謝を持って使わせて頂き、用を果たして宇宙に帰るまで、大事に使わせて頂く事が大切です。
一つ一つが満足して宇宙の要素に帰る、この事を仏教用語で成仏すると言います。

 人間の欠点は、非常に心が奢りやすい事です。この驕る心が、神様より頂いたこの世の芸術品を幾らでも殺しているという事になります。
十年使えるものを一大根は、二年で捨ててしまう。又食事にしても不足を山程言って使わないで、そこらへんに捨ててしまったとするならば、
その捨てられた大根なら大根は役目を果たせず、殺されtが事になります。
殺した方の人間は、殺生の罪を神様より着せられてしまいます。
この様な罪が重なりますと、今幸せであっても、やがて全て取り上げられて、物質不如意となり、貧乏のどん底に堕ちるねばならなくなります。

 ですから、私達は自分の前にある一つ一つを本当に生かして、感謝を以て使い切るという事が大事な事となります。
それが生きたる喜びを知る事となり、その行為の一つ一つが信仰であり、神の道です。

 ここで、釈迦のお話をして頂きました。釈迦は、その魂を練る為、最初は非常に難行苦行をなさいました。
そして、如何なる事にも耐え抜ける諸行無常の行にも合格なさいました。諸行は、非常に苦しく矛盾だらけの世の中で、反省に反省を重ね、
理解に理解をして許し難きを許し、耐え難きを耐える行です。

 そして、その修行を終えられたので、神様はその国の王様を通じて、新しい衣を与えられました。
古い衣はというと、ボロボロになったので、雑巾にし、その雑巾もボロボロになったので、教えを説く神殿の壁に塗り込められたのです。
こうして十分に、その衣も三役を果たして、十二分に使う事が出来て、釈迦のお心が奢っていないと見定めた神様は、一段上がる所を二段一辺に、例えば七段より九段へ上げられたのです。

 人間は、万物の長であるので、周りの全ての物を生かしてやり、見守って大事にする事が、神の分け御霊を生かす事になおてります。
又、人間は神の創りし芸術と言われていますが、例えば、この手で大きいものを掴めれば、米粒の様な小さい物も掴む事が出来ます。
この宇宙ですら、人間の手で壊す事も出来れば、大勢の人を助ける事も出来ます。

 人間の胸先三寸により、神様の使命を果たす事も出来、又悪魔の仲間入りも出来ます。
悪魔の仲間入りをしては、この地球は破壊していまいます。
信仰に於いては、肉体を持つ人間は、全て完全であるとは、絶対に言えません。
人を信じるのではなく、唯絶対なる神、大祖神を信じ、その教えを実行して行く事が確実な道です。
そうすれば、教典を唱えるだけで、魔は逃げて行きます。
この世にある全ての神の創られた芸術を知り、それを心より喜び、感謝して生かして使わせて頂く事が、神様の御心に叶う事となり、信仰の向上につながります。

 信仰に於いて、驕る心は天狗となり、神様は一番嫌われるのです。
人間は、ああなりたいと思ってなってみたら、すぐ有り難さを忘れて次を要求します。
次に登れなかった時は、非常な恨みと不足心を抱きます。
神様は、必ず上仁登りなさいと申されるけれど、それは満足して登らなければなりません。
そうすれば、その人は、生きたまま天国界に登る事が出来ます。

 御教祖様と時を同じくしyて生まれ、そしてこの世で大祖教に御縁のあった方は、深い神縁のある方で、御先祖も徳のある方なのです。
御教祖様は生涯を通じて私達に、大祖大神様の御意志を教えて下さいました。
その中の一つが、本日教えて頂いている「生きたる喜び観(し)るならば、完全(一つ一つ)が神の芸術(わざ)愛の宝は無尽蔵」です。
この世にある全ての物は、神様から頂いた物なので、いつも泉の様に潤って来る、感謝を以てものを生かす使い方をするように、教えて頂きました。

令和六年五月八日御神話解説

大祖教 御神話解説
新緑の五月となりました。気温の振れ幅が十度位あって、体がついて行かず、疲れている人が大きうなっています。
貴方は、如何ですか。

 本日は、昭和三十八年五月八日の御神話より、お話しさせて頂きます。

信仰において、一番大事な事は、自己の精い神改革です。
この時から既に三十年近く経ち、今だに余り改革されていない人間界ですか、神様は、いつもそれを待って居られるのです。
 人間は、老病死苦の為、右往左往ともがいています。
この四苦の苦しみより一歩一歩と外に出る事が出来る様にする為、御教祖様は、人間達の行いを右巻きになる様にする為、
手を引いて下さるのです。信仰をするという事は、その人は無色光を目指して登っているという事になります。
 大祖神大神様は、神の子として人間を創られ、日本を神の国として第一に人間を撒かれました。
第二にイタリアに人間を撒いて、音楽を発展させました。音楽は、ぐるぐると地球を右巻きに巻いていますが、
人間は左に巻いている人が余りにも多い。どうか右巻きに立ち返って欲しい、と御教祖様は切に願われました。
 人間の身体は、小宇宙と言われていますが、構造は、大宇宙、中宇宙と同じ構造で出来ており、
火もあれば木もあり、水木金土の水脈が流れています。
この水脈に五行の現界の徳が流れ込み、右巻きの人のみが、この徳をスムーズにいただけるのです。
日本は、第一の長男国で神国である為、非常に神秘的な霊気が働き、神様に近い為、神様が働きやすく、一番神に近い存在です。
しかし、現在日本では臍曲りの人が多い。臍曲がりは左巻きです。物に囚われ、物に拘ったならば、早く末路が来ます。
心を御教祖様の御教えの方へ向けるならば、人間の肉体は、最高で百六十才迄生きる事が出来ます。
 御教祖様は、鏡で、恐ろしい心を持った人が前に来ますと、たちまち恐ろしい顔になり、
美しい心を持った人が前に来ますと、たちまち美しいお顔になられるのです。
御教祖様のお身体からはピカピカと光を発して居られて、この光に触れた人は、次第次第と罪が剥がれて来ます。
悪い事も出てくるので、こんな筈ではなかったと神を恨んではなりません。
それは、癩病の罪を作る事になります。
大祖教を信仰する人は、御教祖様の近くにいる事と同じなので、注意しなければなりません。
 神様の世界に罪はありません。 唯全てが愛なのです。
人間が勝手に自分を知らないで、危ない橋を渡っているだけなのです。
大祖大神様の御教えに耳を傾け、その真理を知って突進する人は、何百億の罪も一瞬にして叩き割る事が出来ます。
その人の前は、行く所全て浄、何を見てもピカピカと光る光があり、悪行、悪行、裏切りも全て浄化されて、
胸を痛める老病死苦が一つ一つ消えて行きます。
 自分の趣味を生かし、良い言葉のリズムで楽しく生活すれば、行きつまりはありません。
 今日一日を精一杯生き、財運も円満も向上して、神様の世界へ心を伸ばして、物は物で楽しんで通って行く様に、
御教祖様はお教えくださいました。

 元旦に起こった能登地震から、もう五ヶ月目に入りました。
現在、石川県では二百四十五人が亡くなり、三人の人が行方不明です。
能登半島では上水道が今尚復旧していないエリアが残り、不便が長期化しています。
避難者は、四月三十日現在、石川県で、四千六百六人で、半数は、学校や公民館に身を寄せ、ホテルや旅館にいる人が半数居ます。
 国も県も断水解消の為、五月末を目指して頑張っていますが、断水が解消されても、
自宅の配管が破損しているので、水道が通じていない住宅が多いそうです。
 四ヶ月経おっても、まだこの現状なのだと、私は胸が痛くなりました。
日本は今、現在は水は使いたいだけ使う事が出来て何の不自由もありません。
しかし、日本の中で今だに水が不自由な人達がいることを思う時、水が有り余る程頂いている事に、
本当に感謝しなければと思うのです。
神様は良く、火水木金土の五行の徳が人間には必要である、と仰って居られますが、
毎日をこの五行の徳を頂いて無事に暮らしている事が、どれだけすごい事なのかと、改めて思いました。本当に感謝です。

 そして、能登の人達全員に水が届きます様に、心より願っています。

令和六年四月御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、お元気ですか。四月に入りました。四月は、日本では年度始めの月となっています。学校は始まって、学年は一つ上がり、新入生は入学式を迎えます。会社に就職した人は入社式を経て、新しい仕事につきます。
 全て新しい事が始まるのです。今までの嫌な事、出来ていなかった事、全て忘れて新しい出発をして頂きたいと思います。
 四月八日は、お釈迦様のお誕生日です。今年は、桜の満開が四月八日に重なって、花祭りに相応しい日となりました。お釈迦様は、大祖神の右に仕える神様で、イエスキリストは左に仕える神様です。イエスが、神の道を説きながら、十字架にかからねばならなかったのは、中間所の先祖の事を説かなかったからです。
 人間が背負っている罪というのは、半分は自分が犯した罪で、半分は先祖の犯した罪と言われています。それ故、先祖の罪の在処を知って、中間どころの成仏しない御先祖に対し、しっかりと徳を送って先祖の悩み、苦しみを解かねばなりません。そして、中間どころに居て、成仏しない先祖を、その上の天国に送らねばなりませんが、その因果法を説く為にこの世に生まれて来たのに、中間どころを説かず、霊界を抜きにして、神の子として天と地のみを説いたのです。因縁により、先祖の罪の汚れにより人間達が苦しんでいる、その道を説く為に、この世に産まれさしたのに、それを教えなかったのです。人間としての為すべき事を教えず、天界の神そのままを教えたのです。それは一見、美しい事の様に見えますが、中間の先祖が遮っているので、人間は日の光を見る事ができません。この神の使命を果たさなかった為、処刑される事になったのです。 よって、本当の罪の無い世界に行きつくには、まず中間どころの先祖を浄め、後半分の自分の心と身を清めねばなりません。ちなみに、イエスの魂は、元々が神の魂である為、昇天された後は、天界に戻られて、元の位置に戻られたそうです。
 人間は各々、自分の徳により、着物を貰って産まれてきます。地獄以下より産まれて来る者は、黒い着物を着ています。五段より七段の人は、白い着物、七段以上八段までは銀色の着物、八段から九段までは金色、その一番上は無職の着物を着ています。この無色の着物を着る人は、非常に少ないと申されました。イエスやお釈迦様は、この無色の着物を着て生まれて来られたのですが、イエスは処刑され、釈迦は、その当時は良かったのですが、時代が進むにつれ、教を曲げて曲げて、この世の人間の為の教を、あの世の行った時の教に曲げてしまったのです。
 聖典には、「心を清め身を清め 祈れよ大祖と一つになれよ」と教えて下さっています。心は中間どころで、先祖を上げれば上げる事が出来ますが、自分の身は自分でしか上げる事が出来ません。自分は、神の御心に反した所は無いか、方位を犯してはいないか、一つ一つに足を踏みしめて考え、心も身も清めながら進む事が、自分の身を清める事となり、上仁上がることの出来る一番の早道である事を、この時教えて頂きました。