-
令和二年十二月御神話解説
-
皆様、御元気ですか。今年も納めの月となりました。十二月の御神話解説をお送り致します。
今年はコロナウイルスの為、大変な思いをされた方が多く居られたと思いますが、この自分の心を制御する事が出来た人は、神の道でも、心境を上げる事が出来るのです。神様の道で一切を捨てられる人は、絶対に幸いがやって来る事になっています。
人間は、二通りの人があり、肉体を主体とした動物人間ならば、物が無くなれば不足に感じ、不安と不足が常につきまとい、滅びの方向へ行ってしまいます。一方心を主体とした神の子人間ならば、人の善意を感じる事が出来、神様の恵みを感謝する事が出来て、肉体の罪をどんどんと解いて行って、軽い軽い心と身体になる事ができるのです。
人は天寿を全うし、喜んでこの世を去る事が出来なければ、本当の幸せではありません。又臍天で寝て楽隠居といっても、本当に幸せではありません。暇で暇で何もする事がないのは、地獄です。年齢に応じてその日の仕事、その日の努めをするのが、人間の義務で有り幸せです。いくらお金が有っても、無用とされる人は生き地獄です。人に必要とされ、感謝と喜びを知る人には、次第次第に向上して、この世の地上天国となる事が出来るのです。
人間は、天地の間に生まれ、育ち、寿命が来たら肉体は滅びて行きますが、それは決して無くなった訳ではありません。寿命迄生きた人は、役目を果たす事が出来た人となっています。役目を果たす迄、途中の事故で無くなる事は、避けなければなりあせん。花を咲くのも喜び、散って行くのも喜び、おじいちゃん、あばあちゃんが長命で、無事にこの世の役目を果たして、引いて行った姿はお目出度いのです。春の桜が咲き、散り逝く姿もお目出度いのです。あらゆる物がつく息、引く息とに創り上げられてあります。人が生まれる時も、頭が出たり引っ込んだり、この頭がごくんと出たら、後は楽に生まれでて来ます。途中で力が無くなってしまうと、生まれでて来る事が出来ません。回復手術となります。だから、生まれる時は、一息で、何も考えず、算盤も入れず、一気に頑張るのです。
運は、天に任せる。この一遍にいきむ姿に於いて、始めて首は天界に突っ込み、そこで始めて自由になれるのです。何事も自由に思いのままの神の子となれるのです。この信仰の道に於いて、脱線しない様に、本当の神の子として、十方界目指して真理の道に突っ込む様に、十二月の本年納めの月に、この御神話を下さったのです。
(この御神話の御本を是非読んでみて下さい。CDも発売しています。御希望の方は、御本部迄。)
-
令和二年十一月御神話解説
-
皆様、御元気ですか。十月は、神無月、十一月は神楽月と、この二ヶ月は、神様の御神霊がとても強く働かれる月となっています。西宮高座山の御本部は、御教組様が生命、円満、物質の灯台として、建てられました。そして、この生命、円満、物質を求めて神楽に集まれる人には、その人の心定めによって、夫々の徳を頂く事が出来るのです。
御教組様は、天、地、人の三つの道を説かれて、生きているこの現界に於いて本当の真理を知り、生きている内に現界にて天国界に昇りなさい、と説いておられるのです。あの世に行ってからの天国ではありません。仏教を説かれた釈迦にしても、あの世の天国ばかりを説かれた訳ではなく、この世の道の向上を説かれたのです。
それが、何代も時が経ち、次第次第に目で見た美しいだけの行事祭式にとらわれて、本来の生きている人間の為の生きる為の信仰である事を唯単なる華麗な葬式ばかりに拘る事となったのです。大祖大神様は、この事を大変に憂いて、この世を救うべく、大祖護光天大神様(御教組様)をこの世にお出しになったのです。
神の神霊に触れて一心に立ち上がり、汗水たらして頑張る人には、どの様な力も神は下さるのです。反対に自分は何もせず、手を合わせて拝んでおったら、神さんがなんとかして下さるだろう、と思うのは大きな間違いで、神様も働いては下さらないのです。神様の徳というのは無尽蔵で、一人が貰ったから他の人の分が減ると言う物ではありません。汲めども汲めども尽きない徳で、徳の積んだ人に無限に与えられるのです。
人間の中には、悪魔の様な行いをする人がいますが、その人の心の中に神の分霊が入っていないのか、というとそうではありません。同じく神の分霊を持ち、地獄の様な行為を取ったとしても、その分霊は減りはしないのです。その悪魔の行為により、その魂は汚れて中の光はこの汚れに遮られて光は、発せられなくなり、神様の交流も途絶えて、してはいけないという知らせも分からなくなってしまい、悪魔の穴にはまってしまうのです。人間が滅びる方向へ持って行くのが、悪魔の本性で、この宇宙界、生物界全てを悪の巣にしようと、悪魔は一心に働いているのです。この悪魔の穢れを取るのには、無の心が要ります。無の心とは、自我を張らない事です。御教組様が、折角教えて下さった事に対して、ああでもない、こうでもないと理屈をこね回しては自分の穢れを取る事が出来ないのです。
この辰の年は、特に立つ、立ち上がる事を強調なさり、実行する竹の努めを特に強調なさいました。御教組様は、三歳の時に手から血を流しながら、竹を折り、それを神殿の様に建てられて、そこに砥石を置き、拝まれたそうですが、成長なさって、本当に血のにじむ様な御苦労をなさって、この神殿をたてられたのです。そして、御自分は砥石となって、私達の穢れを取り、その身を削られたのです。
御教組様の血と苦労の結晶である御神殿は、阪神大震災の時に倒壊致しました。誠に痛ましい事でありましたが、平成九年、新しい本殿が再建されました。この時、天使信徒が手を携えて、一つとなり、協力した事が大きな力となりました。現世の生命、円満、物質の三徳は金鉱の光です。この金の光を錆びさせてはなりません。この金の光を錆びさせない為に、御教組様は砥石となられて私達を磨いて下さったのです。
今は秋、実りの秋、一番季節の良い筈が、一日の気温差が十度以上もあり、身体が付いて行くのに大変です。その上コロナで、普段の気遣いも大概ではなく、皆様お疲れの事と存じます。どうぞ、御身体を御自愛下さい。そして、何事も良い方へ、明るい方へ、道の開く方へ御自分の考えを持って行って、御自分の心を労って上げて下さい。
-
第六十回開教記念祭感謝文
令和二年十月御神話解説
-
皆様、御元気ですか。暑かった夏もようやく終わりを告げて、朝夕めっきり涼しくなりました。今月は、住吉教会第六十回開教記念祭の感謝文を上げさせて頂きます。
「宗教法人大祖教住吉教会第六十回開教記念祭感謝文」
本日は、宗教法人大祖教住吉教会設立六十周年記念祭を迎えさせて頂き、誠にお目出度うございます。六十年と言えば、人間の還暦に当たり、六十年もの永きに渡り厚き御守護を頂きました事、心より御礼申し上げます。
夏の暑さもようやく去って、秋の気配を感じる様になりました。御教組様は、御本部を命の灯台として、円満の灯台として、物質の灯台としてお建てになりました。御神話でも申されておられます様に、日本は地球の中心部に当たり、人間で言えば額に当たります。そしてその心臓部に当たるのが、この西宮の御本部なのです。ここ数年御本部に於いて、元天使の間違った考えにより、本部はどんどん汚くなり、光りを失ってしまいました。それと共に、恐ろしい事に、台風はどんどん来るし、災害が頻繁に起こる様になりました。大雨が降り、あちらこちらで洪水が起こる様になりました。堺も例外ではありません。この頃になって、やっと、何かがおかしい、何かが間違っていると思い始めました。
今年一月より更に、本部に来なくても良いとか、感謝祭も御真髄二十一巻で帰されたり、お祭りに神様のお供えが何も無かったり、それは急速に坂道を転がる様に落ちて行ったのです。
御教組様の一番お近くに居た人が間違ってしまいました。真理を知っているから、間違わないという事では決してありません。この間違いに陥らない為には、いつも一つずつ、何が正しいのか、何が神様の御心であるかを良く考えて進んで行かなければなりません。この三月より御本部は正常化され、御教組様の居られた時のままの行事を執り行う事になりました。そうすると、来ると言われた台風もそれて行き、被害甚大と言われた雨も左程降らずに、どんどん良い方向に変わって行きました。本当に間違いに気が付き、元の様に戻す事が出来て良かったと思っています。
この先日本は、地球はどうなってしまうのだろうと思っていた不安が、この頃、御本部が正常であれば大丈夫、と思える様になってきました。これからも、御本部が生命の灯台、生命の源であると言う事を忘れず、神様の道を真っすぐに進んで行きたいと思っています。御教組様、有り難うございました。(三唱)
-
『己が身を省みずして神の為 尽くすぞ人の努めなりける』
令和二年九月御神話解説
-
皆様、御元気ですか。コロナウイルスも、感染者が多くなったり、少なくなったり、その度一喜一憂していますが、マスク、消毒、手洗いが日常的に身についてきました。常に気を緩めず、頑張らなければ、と思っています。
今月は、昭和三十八年の御神話から、お話させて頂きます。「己が身を省みずして神の為 尽くすぞ人の努めなりける」
この聖典の御教えにより、良き人生を送る心構え、福徳の在処を教えて頂きました。昭和三十八年のこの年は、卯の年で、兎がその象徴となっておりますが、この卯年の兎の精気は、産む生まれるの精気で、表面的に強く見える寅よりも、内面的に強固で強いのです。
卯年に生まれた人は、非常に清潔家で、いい加減な事が嫌いで、一度事を起こしたら、最後迄やり遂げるという非常に霊気の強い性が働くのです。卯年の産むという力は、海山野に例えると海で、これは御教組様が叡智の海の徳として、宇宙の真髄となさっている所の徳の在処が、この海の徳で、産む力であって、海の宝なのです。一般の人間社会に於いて、海山野の徳のうち、一番頂きにくくなっているのが、この海の徳なのです。信仰する人もしない人も、皆一様に神の愛を受けて自然の恵みの中で生活している訳ですが、信仰をすると言う事は、宝の在処を知って宝の側に近寄るということなのです。この中で一番頂きにくい海の徳とは、人の道の徳です。日本民族一同が、この産むと言う事、人の道に対して、神様から本当の徳を貰えない立場にあるのです。
為すべき事を為さず、為すべき心、為すべき行いを為さずに、棚ぼた式を夢見る人が多い。宝くじもたまに当たるから皆迷います。しかし、徳があって入って来たのではない場合は、お釣が来て、お釣とは、そのお金で株にてを出して、すってんてんになったり、泥棒に持って行かれるとか、贅沢三昧をして数ヶ月で無くなったとか、身に付かないのです。それ等は皆、左巻きのルートに乗って、破滅の方へ行っている事になります。
「己が身を省みずして神の為 尽くすぞ人の努めなりける」と聖典にあります様に、己の身を省みていては賢くなく、自分の徳とはなりません。自分の事は更に考えない、執着をしない。大切な事は、悪い事は無い様に、良い方へ行ける様に、神、先祖に叶う心になさしめ給えと祈る心です。この心になったならば、この家では次に何が要るか、息子が大学であるからこれだけの物が要る、会社を設立したから、これだけの枠が要ると、神は既に御存知で、必要物は既にその人の前に回されてあるのです。しかし、現状は人の幸いどころか、自分の幸せのみに浮き足立っているので、神様よりの徳を受け取る事が出来ません。足を地に付けてこそ、始めて心がさわやかで、神様のルートを右向けて進んで行けるのです。
人は一人で進めるものではありません。共に支え合って行く様に、創られてあるのです。ひとの世界で良い事をすれば、二倍の徳、千円ならば、二千円の徳、これを神様の道で千円の徳を積んだら、百倍の徳、十万の徳となって帰って来ます。一銭二銭の人の世界の徳を積むよりも、ちょっと神様の道の話をするだけでも、百倍の徳を頂くのです。例えば、跡絶のお家の人を一人でも熱心に信仰する心に育て上げたならば、霊界、天界で五十億の徳を積んだ事となり、現在に於いては、一億の金利を頂ける事になるのです。二人を導くと、百億の徳となり、二億の金利を頂けるのです。陰徳とはこの様に、百億の徳を全部頂くよりも、二億の金利を頂く方が、減らないでいつまでも頂けるのです。主人に貰った、或は子供に貰った、細君に貰った、孫も貰ったという様に何時迄も続くのです。
百点良い事をして、百点丸々使ってしまったのでは、貯金が無くなる事となり、又地獄の様な苦しみが来て、いくら信仰しても、悪い事が来る、神も仏も無い、もうこんな信仰は止めておこうという事になるのです。人が為すべき事をして、人の道を真っすぐに進んだのなら人間界の通貨のルートは安定し、財政的に破綻が来て苦しむ人は無くなってきます。
人に良い事をするといっても、私は三十万円持っているから、それを困った人に上げます。でも、自分は自分は裸になってしまいます。そういう徳の積み方は、たかがしれているのです。それよりも、人間界は持ちつ持たれつ、自分は忙しいけれdも己が身を省みず神様の道へお導きが出来た時には、その人は救われ、神様、御先祖様にも喜ばれて、導びかれた人が本当に助かる所迄信仰出来たら、それは五十億の陰徳となります。神様の通力は神通力、人の通力は人通力、五十億の徳が付けば、自分の望んだまま、そのままが現界に現れて、神通力、人通力の力が頂けるのです。今、心機一転し、新しい考え方で、自分の心を見直し、自分の行動も振り返って見て軌道修正をして下さい。自分の事は勘定に入れない。立ち向かって来る事に誠心誠意出尽くし、神や先祖の喜ぶ様に心を尽くす事が、一番現界を良くする早道になります。
御聖典の三十七番「肉を愛せば死が来る 霊(神、先祖)を念せば円満命の保存なる 己が為地上に積んだる物質をば 錆びて古びて盗まれる 天に積んだる施救済宝は永久不滅神徳光(えいきゅうふめつ われまもるなり)」この事をしっかりと、自分の頭と心に入れて、大祖護光天の道の右巻きのルートに乗る様にと、御教組様はお教え下さったのです。
-
令和二年八月御神話解説
-
毎日猛暑が続いておりますが、皆様御元気でお過ごしでしょうか。八月の御神話解説を送らせて頂きます。八月は御神話が非常に少なく、その当時は御本部はクーラーも無く、扇風機だけだったので、御教組様は、とても御身体にこたえておられたと思います。
それでも尚、S43年八月八日の感謝祭には、御自分の体調不漁を押して、御神話を下さいました。非常に心を打つ御神話なので、今回は、この御神話を元にお話させて頂きます。八月の八日は、立秋を経て秋の部に入ります。夏の暑さに耐えた天使信徒を労われました。そして、地上の人間は本当に一日を幸せに暮らしているかと、問われたのです。只物質のみを幸いに考え、それを追い回している人が余りにも多いと嘆かれました。御教組様は、物質面と、円満ばかりを頼んで来る人間達、信者達に非常に疲れたのです。
それでは行き詰まりが必ず来る。折角信仰するのならば、行き詰まりの来ない円満、行き詰まりの無い物質、行き詰まりの無い命でなければなりません。真に命は尊いとは知りながら、生かして貰っている有り難さを、私達は心から知る事が出来るでしょうか。祖末にしておりませんか。
命があればこそ、円満も物質も生きてくるのです。命をおろそかにして、物質と円満ばかり追い回していては、必ず泣かねばならぬ日がやって来ます。苦しみも避ける事は出来ません。
御教組様は、本当の事が分かっておりながら、人間達の欲する円満と物質願う御行ばかりする事となったのです。そして御身体を痛めてしまわれました。神は、人間を愛し給うので、必要な食べ物も着る物も与えて下さるでしょう。しかし、それ等は神の与えた潤いであって、命ではない事を知らねばなりません。神は、無限の知恵と無限の愛を以て、本当に今人間が悔い改めるならば、どんな罪も許して下さる。仏教で言うどんな深い因果法則でも、即座に解いて、その罪を許して下さるのです。しかし、それは、身も心も物も全部神にお供えの上でなくてはなりません。自分の持っている物全てを、一切を捨てて、神に許しを請わなければ、聞き届けては下さらないのです。
人間の欲を一切捨てる事が出来たら、反対に心は軽くなり、上に上にと上がる事が出来るのです。上に上がる事が出来たら、人間は神様より自由に欲しい物は与えられる事になっているのです。これが、大祖教の御教えの根源です。今、コロナで、明日は自分の命が危ういかも知れないと言う思いが、誰の頭にもかすめる事と思いますが、こんな時だからこそ、今日生かして頂いている事に感謝を忘れず、真の信仰の道を歩んで行きたいと思います。暑さの折り、御身体を大切に、御元気で御過ごし下さい。では又。
(この御神話は、大祖護光天大神様の御教え第八巻に載っています。御本をお持ちの方は、是非原文をお読み下さい。お持ちでない方は、御本部迄お知らせ下さい。御送りさせて頂きます。)
-
『光の子 光のあるうちに光を信じられよ 神は光なり』
令和二年七月御神話解説
-
皆様、御元気でお過ごしですか。緊急事態制限も解除されて、ほっとした方も多いと思いますが、手洗い、うがい、マスクは欠かせず、人の集まる所では間隔を開けて、常に消毒もついて回り、前とは、全く違った日常になってしまいました。あれも出来ない、これも出来ないと考えるよりも、これも出来るようになった、あれも出来る様になったとプラスの思考を持って下さい。私は、ずっと病院にいて面会が出来なかった母と、緊急事態解除により、面会が出来る様になって嬉しかったです。
今月より、やっとホームページが開かれる事となり、これも又嬉しい限りです。元役員天使の間違った考えにより、中断されていましたが、今の様に人が集まってはいけない、大きな声で話してもいけないと言う事になると、これはインターネットのオンラインでしかお伝えする事が出来ないと思っています。
私の今日迄生きて来た支えとなったこの御教えを、皆様に毎月お届け致します。これからもよろしくお願い致します。本日は昭和四十年七月八日の御神話よりお話させて頂きます。「光の子 光のあるうちに光を信じられよ 神は光なり」「己が身を省みずして神の為尽くすぞ人の努めなりける」
この御聖典の御言葉は、大真理であって天上の光は天下の闇を除き、汝達に自由の権限を渡すとおおせでございます。本年三月八日より、御本部の在り方を元の御教組様の居られたときの様に戻して、「コロナウイルス沈静化の日本国開運」もさせて頂きましたが、その頃より、感染人数は激減して、神様の道筋に叶った御勤めをするならば、強力な御加護を頂き、偉大なお光りに照らして頂ける事を、身を以て実感しています。一年を二等分して、一月より六月迄が上半期、六月より十二月迄を下半期と申します。七月八日は、「海山野」の野開きのときで、地上の生む力の最も強い日なのです。地上の理に反した罪深い人は、腰から下の病となり、これは地金神の祟りです。海山野の幸に感謝の出来なかった人は、その罪は、胃腸に現れます。ああ、有り難うと感謝が出来たら、褒美は出る事になっているのに、不足ばかりであると、胃や腸、肺が悪くなります。今のコロナウイルスは、 人間の野の徳に関する感謝の不足の現れかもしれません。
神様の宝を送って下さるルートは、巽(南東)の隅より乾(北西)へ風を起こして、その風に乗って、水と共に送られてくるのです。これが天地風水の理で、この天地風水が完全でないと、御徳は送られて来ない、又は受け取る事が出来ないのです。心が高く、どのような事が起こっても感謝出来るなら、使っても使っても減らない徳を頂く事が出来ます。神様は、野の食料として里芋を下さいました。そして、一心不乱に野の修業をした人には茄子を御与えになりました。茄子と言う字の草冠は作業のサで、その下に力、そして口は言葉を現して、一生懸命作業に力を入れて、良い心で良い言葉を発する、それが茄子の精の心粋です。
茄子も色々とあって、欲張りながら惜しいけれど、命じられたから仕方なく細々と積んだ徳の茄子は長茄子、短期間に沢山積んだ徳は巾着茄子で、これらは皆、積んだ人の心を現しているのです。この茄子を神様から頂いた人は、一番、十一番、百十一番の番号を頂き、一の数が多い程神様に近い人になれるのです。この茄子を頂くと、打出の小槌の様に、何でも自分の欲しい物を頂けるのです。
野の水に感謝する人には木を生じ、木の徳は、山の木で人間の住居の徳が付くのです。木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じます。これが五行の徳で、人間の世界で、この五つの徳を上手に使って、海山野の理に添って行けば、為す事する事がスムースに行く様になるのです。
茄子の気持ちは、三三九度、人間の結婚式で上げる三三九度とは、天に地に人に、妻に主人にさんざん苦労を致します、と約束する盃なのです。日本人は、地球でも最も敏感な心臓部に生まれています。だから、日本人の心如何によって、天界、霊界での神様のお働きも違ってくるのです。そうすると、世の中の形勢も、経済界の在り方も、国の定まり方も違ってきます。心臓部の日本人が自分の価値を知って、野の理に感謝し、野の徳である水に感謝し、この現世に頂いた徳に感謝し、神様の試験に合格して、人は持ちつ持たれつ、人徳を積み、光を太めて、真の余徳を現界に出す様に、極力努力して欲しいと、御教組様はこの時、この御神話を下さったのです。