過去の御神話解説

2021年度

令和三年十二月御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、お元気ですか。令和3年も十二月となり、今年も後僅かとなりました。オミクロン株も心配ですが、今の所拡大には至っておらず、なんとかこのまま日本は逃げ切って欲しいと思っています。今月は、昭和三十八年十二月八日の御神話を元に、お話しさせて頂きます。御教祖様は、新しい新年を迎えるための心構えを教えて頂きました。
 日本人は、一般的に山の徳、野の徳は頂いておりますが、海の徳は足りていません。昭和三十八年は卯年で、卯は、産む、生まれるという意味で、産むというこの卯年に喩えられているのです。寅は表の年で、表面的に見れば、力の強い様に見えますが、内面的に強いのは、この卯年なのです。
 卯年に生まれた人は、非常に清潔家で、物事もいい加減な事が嫌い、一度事を起こせば、最後迄やり遂げるという非常に霊気の強い性を持っています。御教祖様もこの卯年の生まれです。この卯年の生む徳は、海山野に例えるなら海です。御教祖様が、宇宙の真理の真髄とされたたのは、宇宙の徳とされた海の徳です。
 現在、一般に生活は向上してきましたが、その内面、心の世界の向上は乏しいのです。御教祖様は、信仰をする人もしない人も、皆同じ様に生かして頂いて、皆同じ様に徳をいただいておりますが、信仰する人は、宝の在処を知っている。信仰をしない人は宝の在処を知らないという違いがると申されました。
 徳はいただけないのではなく、神様は既に人間の側に贈られているのですが、人間の心が左巻きになっている為に、受け取れないのです。人間界では、天文、地文、あらゆるものが皆右巻きのルートに作ってあり、人間の心が右巻きになったならば、徳はルートに乗って入ってくることになっています。一億を望んでも、一千万を望んでも、必ず願いは叶う、想いは通じるのです。
 右向きのルートに乗るのには、慌てず、気短くて気長く、静かにそっと強引に乗らなければなりません。千両役者になれよと、よくご教祖様はおっしゃっておられましたが、これはそれと同じ事を言われているのです。御聖典に、「己が身を省みずして神の為」とあります様に、自分が、自分がという心の執着を取り外す様に、自分の心の鍵を開けなければなりません。自分の事は考えない。執着はしない。唯一心に神や先祖に叶う心になります様に、と祈る心のみが、右巻きのルートに乗れるのです。
 人間の必要物は既に神様はご存知です。この人にはこれだけ要るな、例えば大学に入れねばならん子供が居るとしたならば、これだけのもが要る。会社設立しようとしたならば、これだけの枠がいると、神様は既にご存知で、必要物はその人の前に置かれてあります。
 それでは、「己が身を省みずして神の為」とは、具体的にどの様にすれば良いのでしょうか。それは、神の道を求めて来る人に対して、手引きをして、救ってあげる事です。一銭二銭の値打ちしかない人の徳を積むよりも、神の道の事を少し話してあげるだけでも、人の道の百倍の徳をいただけるのです。
 まして、一人の人を神の道に導いて、その人が心より大祖教の信仰に入ったならば、その家が五十億の負債があったとしても、救ってあげたその徳は五十億となり、現界、霊界、天界に対してその徳は流れて、現界において、五十億の金利が出て来る事になっているのです。
 五十億の徳を頂いたら、それは即五十億となって出て来る訳ではありません。その金利を頂いて、減らないでいくらでも次々と入る方が良いのです。家の主人にも貰った、子供にも貰った、孫にも貰った、といつまでも続くのです。百点良い事をしたから、百点下さいというのでは、貯金はゼロで、又地獄の様な苦しみが来て、神も仏も無い物か、こんな信仰はもうやめじゃ、という事になるのです。そこのところを間違えない様にして、隠れた隠匿を積む様にしなければなりません。
 人に善行を積みなさいと言われたので、人に手出しが出来ない訳ではありません。刀を持ってやって来る相手に対しては、刀を持って受け止めよと申されています。平和をもって来る相手に対しては、平和をもって対処する様にと言われました。
 生命が滅びようとしているときに、助からないと分かっていても、誠心誠意を尽くして最後の五分間まで戦う。そして後は神様にお任せする。人の尽くせるだけ尽くして後は神様に任せて天命をまつ。これが神様の御心に叶うやり方なのです。
 天寿を全うして昇天した魂は、消えてなくなる訳ではありません。天に昇り、霊界を通って現界に生まれ変わってきます。そして現界で「己が身を省みずして神のため尽くす」事の出来た人は、現界で暮らしながら、天国界の生活が出来ると、この時教えて下さいました。

令和三年十一月御神話解説

大祖教 御神話解説

 10月は、神無月というが、本当は神が満ち満ちている、と御教祖様はおっしゃった事がありますが、十一月は、それにも増して神楽月とあり、御教祖様のお誕生日もこの月で、七五三のお祝いもこの月で、神様のお祝い事が、いっぱい詰まっているのがこの月なのです。
 コロナの感染者もどんどんと減ってきて、このまま終息に向かって欲しいと思いますが、外国ではどんどん増えているところもあり、海外からの流通のある日本は、油断が出来ません。マスク、うがい、手洗いは、欠かせないところです。
 今月は、昭和41年十一月八日の御神話から、お話しさせて頂きます。大祖教では神様に対し、三本の指で敬礼を致しますが、これは親指は神様、次が人、次が先祖を現していてこの三つが一体である、三位一体を現しているのです。天界、霊界、現界この3つに於いて、生命、円満、物質をもって神に尽くし、先祖に尽くし、物に感謝をし、円満に現界を生活をして行きますというお約束なのです。
 現界の人間の社会には、「あ」から「ん」まで四十八手、それに裏と表がありますが、とかく人間は裏へ裏へと進んでいると、御教祖様はおっしゃいました。裏は地獄で、罪の中に堕ちて行く姿なのです。表は笑いの姿で、心から笑って持ち場持ち場の仕事が出来るなら、五段六段七段八段九段へと昇って行く事が出来るのです。
 人間の肉体には、六つの神様と繋がっている電線があり、それを六根と申します。よく「六根清浄」と言って物を清めますが、この六根が大事で、折角神様から頂いたこの根性を、神様の御心が分からずに、動物人間の不平不満、人の良いところを見ないで、悪いところばかり見る。人が良くなれば妬み、邪推して焼き餅を焼く。この様な人には害虫が湧き、この心の縺れが身体に現れて、様々な病を引き起こします。
 金銭的なものは肝臓に、又肺に来ます。神様の法を犯した人は心臓に来ます。神様の教えの場で、上の人を食んだ人は、7つの典型の一つ、癩病になります。
 人間の行は、大祖護光天大神様と御先祖を2本の柱として、六つの階段を登らなければなりません。一段目は、東の行で親子の道です。親は子を育てる義務があり、子は親に従う義務があります。亡くなって知る親の恩と言われる如く、親の恩は身に沁みるものなのです。
 二段目は西の道で、夫婦の行です。夫婦は陰陽の道で、お互いを尊重せねばなりません。三段目は南で朋友の道です。友達は持ちつ持たれつ、大切にせねばなりません。四段目は師弟の道です。学びの師である人を、弟子は敬わい、師に当たる人は、敬いを受けるだけの値打ちを持ち、弟子を育てねばなりません。これに先祖の道があり、一番上に大祖大神様の道があります。
 この六段の道を、今生きている人はにしにしと昇って、最後まで登れた人は、神様の言われる完成した人となり、現界において地上天国で暮らす事ができるのです。御教祖様は、「今の世にあらゆる悩みがあらんとも 喜び勇め 汝等は既に永久の勝喜なり」と申されています。このお言葉を絶対に信じて、これからも進んで行きたいと思います。

令和三年十月御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、お元気ですか。
今月は、住吉協会の開設六十一周年記念祭の感謝文を送らせて頂きます。
コロナの感染者数も、このところ激減してひとまず安心かな、と思っていますけれども、一度感染者が減った外国では、再び増加しているところもありますので、気を緩めることなく、これからも注意しなければならないと思っています。気温も昨日は夏、今日は冬という様な乱高下を繰り返しています。皆様も、体調には、くれぐれもご注意なさって下さい。

「感謝文」
 本日は、宗教法人大祖教住吉協会開教六十一周年を迎えさせて頂き、誠にお目出とうございます。長かったコロナ禍も、最近は感染者が激減し、ワクチンも行き渡る様になり、特効薬もチラホラ聴かれる様になって、少し光が見えてきた感じです。
 御教祖様は、船で高知へお帰りになった時、大嵐に会われました。木の葉の様に揺れる船の中で、御教祖様は、ご自分の生命ではなく、船に乗り合わせた人達の生命を救い給えと、海の神様に祈られたのです。
そうして、波は鎮まり、船は無事港に着いて、船に乗っていた人は全員助かったのです。
 その御神話の中で、如何様ともなし難い魔が襲ってきた時には、その波に逆らわず、ただひたすら神の船の舵をしっかり握って離さず進めば、やがては波も収まり、嵐も収まる時が来ると、教えて頂きました。
 この度のコロナも、最初は。どうなる事かと不安がいっぱいでしたが、しばらくすると、ワクチンが出来、特効薬も出て、今2年ぶりに感染者は、2桁になりました。コロナ消滅をずっとお願いし続けて、今日迄来ましたが、大祖教の信徒の中で、一人も感染者がなかったことは、本当に神様の御守護があったからだと、心より感謝しております。
 この一年は、コロナに限らず、数々のご守護を頂き、本当に有難う御座いました。これからも、自分の心の反省をしながら、前に進んで行きたいと思います。

御教祖様、有難う御座います。(三唱)

令和三年九月御神話解説

大祖教 御神話解説

 本日は、昭和三十九年九月八日の御神話よりお話しさせて頂きます。明日は九月九日で、重陽の節句と申しますが、この九の重なるのは最高の数理です。現界の結婚式の時に行う三三九度の杯の意味は、神にも人にも絶対なる三才の心をもって、三才の心とは、天地人に沿った心で、神に叶った心で最高の所迄勤め、行おうではないか、と誓う儀式が三々九度なのです。苦労を苦労とせず、神の意思、先祖の意思、人の意思に絶対に叶う儀式なのです。
 昭和三十九年は、危ない穢れを精算する年でありました。天災、地災、人災とあらゆる災害が出たさばきの歳であったのです。良いものは良い方へ、悪いものは悪い方へ裁かれるのです。一年を三つに分けて、一月十一日より五月十一日の四ヶ月間、これが天の裁きの期間です。人間が天に対して罪を犯している場合には、この期間に裁かれます。五月十一日より九月十一日まで、これが先祖の裁きの期間です。先祖に対し罪のある者は、この期間に裁かれます。九月十一日より翌年の一月十一日まで、これが人の裁きの機関です。人の世界で罪のある人は、この期間に裁かれるのです。反対に徳の積んである人は、徳を頂けるのです。
 大宇宙は、宇宙一切を言います。中宇宙は、地球、月、太陽を指して言います。小宇宙は人間の体です。この人間の体に天地人、先程の三つの裁きの反応が出ます。まず、結果的に大便に故障の出た場合は、神に叶わぬところがあります。小便に故障のあった人は、(腎臓病、膀胱炎、糖尿病など)人に叶わぬところがあるのです。骨、血液、これに故を障の有った人は、先祖に叶わぬ所があるのです。
 この三つの裁きの中に、七つの重刑があります。天刑と呼ばれるもので、この重刑の病に何代目かがやんだとしても、心健やかなれば、その罪は消されて治って行きます。しかし、心健やかならず、罪が積もり積もって、許し難い所まで来た時は、重刑の病となります。重刑の病は、中風、癩病、肺病、癌、精神病、頭の大怪我、、落雷による死亡などです。この病は、十億の罪に達した時に出てくるのです。
 大祖教では、天刑となった罪でも、大祖御光天大神に対し、真に尽くす心あらば、その罪も解いて頂くことができるのです。ご自分を顧みて口から物が入って出て行く迄スムースであるかどうか見て下さい。スムースでないならば、何処がスムースでないかを考えて、自分の罪のありかを知り、心の目が開いたならば、その罪は消されて、悪い因果法は良い因果法へと変えられて行くのです。
 「ゆきゆきて 落ち着く先は 花の山」と御聖典にある如く、一日に行う事が全て行で、生命力、円満力、物質力の行と全てが行で、各々に試験があります。
 物質のテストでは、昨日までは、百万円有ったけれでも、今日は一万円に困る、このような時もあります。神様は、例えお金が無くなっても、今あるものに感謝し、それに対して喜べるがどうかを試されているのです。もし喜べたならば、もし喜べたならば、その心によりて罪は解消されるのです。物があるからとて、それに酔ってしまって進む事を忘れてしまうと、堕地獄まで墜落することになってしまうのです。
 その様な人は、亡くなれば亡者となって霊界を彷徨うことになります。先祖が迷うとは、現界で心の堕ちた人が亡者となり、仏となっても、目は見えない、手は合わない、足は動かない、そして足は一本しか無いということになってしまうのです。現界で色情で目の眩んだ人は、目は見えません。嘘ばかり言った人は、口がまともでないので、口もありません。本当の心理を聞く耳も持たないので、耳もありません。只ずんべらぼうの人魂になってしまうのです。
 この世な人が先祖に沢山出ますと、現界の人の足を引っ張ったり、病気を被せられたり、物質の徳を撮られたりします。ここから抜け出るには、自分の心をよく収めて、如何なる事でも、喜んで苦労をしますという境地になれた時に、天から宝が授かる事になっています。不足を言う人には盲目の不徳がやってきます。喜びながら進み、9段から十段に進めば、そにはもう不幸はありません。そこで、ゆきゆきて落ち着く先は花の山の境地へ辿り着くことができるのです。
 現界では色々な罪がありますが、たとえば方位を犯すとします。一回犯すと一万点、これが十億貯まったとします。そうすると、精神描写が一人出ます。もう十億犯すと二人になります。こうなると、罪が罪を呼び、その罪に引きずられて、罪な事ばかりやり始めるので、三十億の罪になります。精神描写は三人になります。こうなると、他の罪もあるので、神様の世界では複利計算されて五十億の罪となっているのです。
 五十億の罪となると、霊界は真っ暗で、六親九族迄が自然と 滅びていく事となるのです。例えば片輪の人が三親等以内に三人出たならば、五十億の借金が神様にあります。肺病でも癌でも、同じ病が三人出ら、非常に借金が多いと言う事を知る必要があります。この五十億の借金のうち、半分の二十五億は先祖が被るのです。後の半分の二十五億は子孫が着ます。
 海の潮ででも辛い所と、辛くないところが有る如く、丁度体の弱っている時に、因縁は吹き出す事になっているのです。先祖の被っている半分の罪は、他力でも消せます。子孫の者が、一人でも一心不乱に信仰し、先祖に徳を送れば、それで消せるのです。ところが、後の半分は限界の人間が被っているので、本人自身がその罪を清めなければ消すことはできません。これも、本人が神様の叡智の叡智にふれ、素直にはいと答えて進む人は、速く罪が消されるのです。先祖を供養するとともに、自分の心もどんどんと浄化させて神様に近づける努力が大切です。
 自分の罪を切る為には、捨て身の行が要ります。捨て身の行とは、心が肉体を抱き込んでいては、罪は抜けません。心を、大祖大御神の教えに投げ込む事が必要です。それが捨身の行に繋がります。自分の業が、どんどんと出る時には、苦労を苦労とせず、行に行を重ねて、進んでやり切る所に於いて、肉体も心も十段に入る事が出来るのです。
 折角信仰するならば、心ばかりが幸いを空想しながら、肉体は苦しみの中にいるという事のない様にしなければなりません。それには、霊界は元より現界も「ゆきゆきて 落ち着く先は花の山」です。花の山は、現界において、自分の思う通りの欲しいものは手に入り、思うように暮らしていける世界です。
 九月十一日より、人の行の期間に入ります。人の世界での徳のあり方が問われます。人間界での良い、悪いを裁かれるので、人間界の罪が出た場合には、良くても喜び、悪くとも感謝し、喜んで感謝をする事が、血の穢れを追放出来る事を知って、進んで頂きたいと思います。

令和三年八月御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、お元気ですか。今月は、先月に引き続き昭和35年七月八日のご神話から、話しさせて頂きます。

 現界で生きているのは、人間のみではありません。
人間は万物の長であるので、その事を知って、下々のもの迄上手に使って生かしてやり、
見守ってやることが、神の分け御霊である人間の役目であるのです。

 神の不思議な芸術を感じられた事がありますでしょうか。
人間のこの手にしても、大きいものをもったり、小さい米粒でも摘む事ができます。
どの様にでも、人間の必要に応じて動く様になっているのです。

 この宇宙ですら、人間の手で壊すことも出来る。又大勢の人を助ける事もできるのです。
人間の胸先三寸により、神様の懐に飛び込む事もでき、又悪魔の仲間入りもできるのです。
悪魔の仲間入りをすれば、この地球は滅びてしまいます。
神様の懐に飛び込めば、そこには破壊なく、不幸なく、天国そのままの暮らしが出来るのです。

 信仰の道においても、教えの道で、あの人がああ言うたから、こう言ったから止めとく、というのは、悪魔に引っ張られているのです。
肉体を持つ人間は、全て完全であるとは絶対に言えません。
人を信じるのではなく、絶対なる神、大祖神を崇め、その教えを信じていく事が確実な道です。
そうすれば、教典を唱えるだけで、魔は逃げて行きます。

 この鬼を自分の心より追い出し、この世に与えられた一切の神の芸術は、衣食住共々、生有るも生無きも、
人間に与えられたもので有るならば、一つ一つを有り難く、その素質を知って、その本性を生かして使わせて頂く心が大事なのです。

これによって、物質不如意となっていた人も、その心は善徳となり、自分一家の悪徳を消す事になるのです。

 信仰において驕る心は天狗となり、神様は一番嫌われるのです。人間はああなりたいと思って、願いが叶うと、すぐ次の事を要求します。
次に登れなかった時は、非常な恨みと不足心を起こします。
神様は、必ず上に登りなさいと申されるけれども、それは満足して上に上がらなければなりません。
不足、不満を持っていたのでは、次行ったところで、不満の褒美を頂く事になるのです。
今を喜び、一つ一つを生かし、そのものの本性を見極めて、最後まで使い切る事が出来出した時に、その人も生かされて、
生きたままの天国界に行く事が出来るのです。

 ご教祖様と時を同じくして生まれ、そうしてこの世で、大祖教と御縁の有った人は、非常なる深い神縁の有ったの有った方で、
ご先祖にも徳のある方なのです。
ご教祖様は、大祖大神様のご意志を生涯を通じて私達に教あからえて下さいました。
その中の御教の一つに「生きたる喜び観るならば 完全(ひとつひとつ)が神の芸術(わざ)愛の宝は無尽蔵」なのです。

 この世にあるものは全て神様が人間に下されたものです。だから貰い放しにしない様に、使い放しにしない様に、泉む泉の使い方をする様に、
その様にお教え頂きました。

 パラリンピックが始まりました。オリンピックは、ギリシャが発祥の地ですが、パラリンピックは、イギリスになっています。
戦争で傷ついた人を治療するイギリスの野戦病院で、リハビリの為弓技の試合をしたのが始まりだとされています。
パラリンピックの選手は、生まれつきか、或いは、人生の途中で事故や病気で、何らかの損傷を負っている人達ばかりです。
非常に心は傷つきながら、それでもその負傷に負けず、世界に向けて頑張っています。ある意味、オリンピックの選手より大きくて強い。
健常者である私が、こんな事ではいけない、と元気をもらっています。
この人たちを見ていると、自分はもっと出来る事があるのではないかと、反省しています。

 コロナの感染拡大が止まりません。毎日、胸痛む思いで感染の人数を聞いています。
ワクチン、速く行き渡って欲しいです。特効薬、どんどん研究されていると聞きます。
必ず、コロナ消滅の日がくると信じています。速くその日が来ます様に。

『生きたる喜び観るならば 完全が神の芸術 愛の宝は無尽蔵』

令和三年七月御神話解説

大祖教 御神話解説

 本日は、昭和34年7月8日の御神話よりお話しさせて頂きます。
「生きたる喜び観るならば 完全が神の芸術 愛の宝は無尽蔵」
御聖典のこのお言葉についてお話を頂きました。

 私達は、本当に生きる喜びを知っているでしょうか。
又本当に生きていると言えるでしょうか。
捻ったら痛いから生きている。
空腹を感じるから生きている。
色んな欲望があるから生きていると言うのでは、
本当に生きているとは言えません

 人間の本質を知り、
人間の真の義務のある生き方をしている人間が何割あるか、
と神様は眺めておられるのです。
信仰とは、生活とかけ離れたもの、暇が出来たら、
お金が出来たらすると思っている人が、少なくありません
この様な現在、自分は今本当に生きているのか、いないのか、
を判断する必要があるのです。
神様からご覧になって、喜びの生き方をしているのか、
邪に落ちた生き方をしていないのか、考える必要があるのです。
今の生活に満足しているか、足りない足りないの餓鬼の心でないか、
自分の心を観て下さい。

 聖典にあります様に、この世にある一切のものは神様の創られた芸術品なのです。
生命あるもの、人間、動物、植物、また生命なき衣食住、
又これに必要な一切のもの、これらに感謝をしているでしょうか。
コップひとつにしても感謝をして使ってやり、
用を果たして宇宙に帰るまで、大事に使う。
そして一つ一つが満足して宇宙の要素に帰れる様にしなければなりまsrん。
これを仏教では成仏というのです。

 人間の欠点は、非常に心が奢りやすい事です。
この驕る心が、神様より頂いたこの世の芸術品を、
いくらでも殺しているという事になるのです。
10年使えるものを、二、三年で捨ててしまう。
又食事にしても不足を山程言って、
使わないでそこらへんに捨ててしまったとしたならば、
その捨てられた大根なら大根は、役目を果たせず、
人間の為に使命を果たせずに殺された事になります。
殺した方の人間は、神様より殺生の罪を着せられるのです。

 この様な罪が重なりますと、今幸せであっても、
やがて全て取り上げられ、物質不如意となり、
貧乏のどん底に落ちねばならなくなるのです。
一つ一つを大切に使い切り、それが生きたる喜びを知る事となり、
その行為ひとつひとつが、信仰であり、宗教であるのです。

 日本でも広く信仰されている仏教の教主の釈迦は、
その魂を練るため、最初は非常な難行苦行をなさいました。
そして如何なる事にも耐え抜ける、諸行無常の行にも合格したのです。
諸行無常の行というのは、矛盾だらけの世の中で、
反省に反省を重ね、許しがたきを許し、
耐え難きを耐える非常に苦しい行です。

 こうしてその行を終えられたので、
神様はその国の王様を通じて新しい衣を与えられました。
釈迦は、古い衣はボロボロになったので雑巾にし、
更にその雑巾もボロボロになったので、教えを説く神殿の壁に塗り込められたのです。
こうして衣も三役を果たし、
釈迦の心が奢っていない事なりましたを見定めた神様は、
一辺に二階級引き上げられたそうです。
私達普通の人間は、とても釈迦の様にはいきませんが、
いつも心が驕る事を戒め、何事も最後まで生かすことを心がければ、
一生のうちには随分色んなことが変わってくると思います。

 オリンピックが始まりました!
随分色んなことがありましたが、始まってみると、
日本人は素晴らしい!と思える事ばかりです。
特に若い人たちが頑張っています。
今のところ、金メダルは、日本が一番沢山獲得しています。
日本人って、こんなにすごいんだと、毎日感動しています。
コロナ禍で、暗くなっていた今、
気持ちが明るくなりました。
頑張れ!日本!!

『一時の救いは救いにあらず 心光る(たかき)が神の御意』

令和三年六月御神話解説

大祖教 御神話解説

 本日は、昭和三十八年六月八日の御神話より、お話させて頂きます。
御聖典の御道の一、
 「一時の救いは救いにあらず 心光る(たかき)が神の御意」
「心光きが神の御意」
この意味が本当にその人のものになっているかどうかで、
その人の身辺は楽しくもなれば、悲しくもなれば、
寂しくもなれば、貧困ともなるのです。

 心の段階は、いつも申されておられます様に、一段から十段迄あります。
その中の五段が普通の常識の人間で、普通のにんげんとしての理性を持ち、
万物の長たる人間として、ある程度出来ており、異常が無いというのが、五段です。
 六感、七感は、まだ神様の御慈悲の分からぬ世界で、神も良く無い、
先祖も良く無い、良いのは只自分のみという世界です。

 私は、こんなにしてやったのに、あんなにしてやったのに、
と卵の中をぐるぐると回っているのです。
卵の中では、光は見えず、あっちに突き当たり、こっちに突き当たり、
湯も茶も煮えたになって、地獄に真っ逆さまに落ちてしまうのです。

 故に、我が肉体のみを愛さず、神の真理のルートに乗って、
速くこの階段を昇り切る事が大切です。

 しかし、この六感七感を抜けるには、色々の苦しみがやって来ます。
例えば、自分の親族に十億の罪があったとします。
どの子に回せば、その罪を解消出来るのか、
解消出来る有望な力のあのる子供に、神様は罪を着せるのです。
よって、苦しみは、悪い人が受けるのではありません。
神様から見て、見込みのある人が受けるのです。

 六親以内の罪を受けて、如何なる苦しみも悩みも乗り越え、
如何なる風も荒浪も乗り越える人が、初めて神様の近くに行けるのです。
絶対にめげないで、壊れないで、身を持って罪の解消に努力するならば、
やがては、真の花の咲く日がくるのです。

 上仁昇れば昇る程、感情の起伏は穏やかになり、
にわかに喜んだり、にわかに悲しんだりが無くなって来ます。
嬉しいn時は静かにして喜び、無楓状態で船を漕げば、
大なる罪は小となり、中の罪は無難となり、
受ける罪も無くなっていきます。

 人間には、上中下とあり、これはお金があるとか無いとかではありません。
その人の心が問題なのです。
上品で高級で包容力があり、感情が豊かで度量が広い。
その様な修業をして、体制をととのえて、悪い癖は改める。
そしてただ一筋に天地人の道を踏んで、御教祖様の言われる方向に進めば、
波も鎮まり、風もおおさまり、過去の苦しみを乗り越えた時に初めて、
過去の苦しみを笑い話ですますことができるのです。

 信仰は、心に残るこだわりを持ってはなりません。
如何なる難儀があっても、こだわりを捨てる努力をしなければなりません。
嫌う事もあってはなりません。嫌う事もあってはなりません。
嫌うという事も、こだわり を持っていると言う事になります。
そうして家族共々上ることが大事です。
しかし、家族共々上るには非常に困難が多いのですが、
人間世界は陰陽の道で、持ちつ持たれつの世界です。

 夫婦、親子、子弟、朋友、そして神と先祖、この六法の道をお収めなければ、
上に上がる事はできません。
釈尊や日蓮の様に、奥様や子どもを放り出したり、独り身であったりしては、
天地陰陽の道ではありません。それは七巻以下の信仰です。
よって家族共々に手をつなぎ、助かる方向へ進む事が神様のご意志であるのです。

 子供は、本当に骨のある育て方をして、一歩一歩と努力の中へ進み、心の埃を放り出して、
心の埃を放り出して、心の光の徳を取り入れる様にとご教祖様は、お教えくださったのです。

令和三年五月御神話解説

大祖教 御神話解説

皆様、御元気で御過ごしですか。
ステイホームで連休も家で過ごされた方も多かったのではないかと思いますが、
季節はどんどんと移って行き今日この頃は夏の様な気温になって来ました。
もう梅雨に入るのかもと言われています。
気温が乱高下していますので、体調には特に気を付けて下さい。

 大祖大神様は、御教組様をこの世に出して、教えを説かせる為、
四十八回も生まれ代わりました。
御教組様の魂は、大祖大神様の御教えを説く為、四十八回生まれ代わり、
練って練って練り上げて、非常に強い念力と、粘りの強い精神力を以てこの世に出されたのです。
この地球も神様よりの念力で練って練って練り上げてあるのです。

 練ったら非常にこしの強くなるお蕎麦やうどんも、練りが足りないとぶつぶつ切れます。
粘りが無い。人間の魂も、練れば練る程強くなる。
浜辺の松も、強風に練られたら練る程強くなります。
「伸ばせば伸びる お蕎麦とうどん」この言葉を、
いつも忘れない様に唱えなさい、と御教組様はおっしゃいました。

 人間は、鍛えなければなりません。
男も女も、老いも若きも区別はありません。
肉体は別でも、魂は区別なく、男に生まれたり、女に生まれたりするのです。
練られて練られて練られて、それでも臍の曲がった方向にいかないで、
善意の中に健やかに心の育つ人を神様は望んでおられるのです。

 御教組様は、七年行に於いて、脈拍、心臓の全てが停止の状態になられた時がありました。
その中で、助かる率が二パーセントしかない命の冥加で、又お元気になられて、
私達に本当の真理とは何なのかをお教え下さったのです。
真に練られた御身体は、弱そうに見えても本当はつよいのです。

 昨今の大きな災害で沢山の人達命を失いました。
生き残った人達は、生命の重さを皆実感として感じています。
今自分が生かして頂いていると言う事を、本当に感謝をして、
強く生きて行きたいと思います。

 大祖教も、御本部が倒壊して、二周年目に新しい御神殿が建ちました。
そして、昨年、御神殿の御御魂の鏡、御道具を刷新させて頂きました。
これを機に、新しい出発として、今、今回懺悔、
神様の前で何でも言える人となり、それで自分が助かり、自分が助かってこそ、人も救えるのです。
人を救うと共に、自分も人に教えて貰って、
共々向上発展の道を進んで行きたいと思います。

令和三年四月御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、御元気でお過ごしですか。
桜の時期も過ぎて若葉の季節になって来ました。
本日は、昭和五十年三月八日の御神話からお話させて頂きます。

 平成四年に阪神淡路大震災で倒壊した御神殿は、平成九年二月一日再建されました。
本当に良かった事と思います。大祖大神様の御神殿を創らせて頂くという事は、
私達大祖教の信者にとって一番大切な事で有るばかりではなく、日本の人達にとりましても、
世界の人達にとりましても、生命の灯台が完成したという事になるのです。

 もしこの神殿が出来ていなければ、全世界の人達が、自分の港を失った船の様に、
荒海の中で只行き先も分からずに、ただよわなければならなかったのです。
本当に御本部が再建されて良かった、そして又、今度も御教組様の居られた時の様に、
元に戻す事が出来て言葉にならない位、嬉しい、そう思わずにはいられません。

 人間には、各々神様から申し付けられた仕事があります。
その役目を果たす為この現界に生まれて来ているのです。
神官になって神様の道に専業となって働く人、又俗界に居て各々の仕事をしながら神を信仰する人、
その人その人によって宿命は様々ですが、仮初めにも、
大祖大御神様が御教組様の肉体を借りて降臨なさり、大祖教の御教えを説かれて居られるこの時に、
時を同じくしてこの現界に生まれて来て、御教組様の御言葉に耳を澄まし、
御教えに心を動かした人は、親子、夫婦、主従よりも、
更に深き深き御縁であると言う事を知って頂きたいのです。

 御存知の如く、御教組様の魂は、四十八回も生まれ代わって、
「あ」から「ん」の人間の修業をなさったのです。
大天使と成れる人も三十回生まれ代わって行をした人で、ざっと計算しただけでも、
一千年、この世で修業した事になるのです。何回も何回も生まれ代わって来た時に、
何かの役で、何かの時に御教組様と巡り会ってお仕えをした人が、その深き深き御縁にて、
今世で又御教組様と巡り会う事となったのです。
 何故今、御教祖様の身体に大祖大神様が宿られて、この世にお出ましになったのか、と言うと、
「このままでは今の地球は、危ない。人類が滅んでしまう。」と思われたからなのです。
人間にとって、何が一番大切なのか、何が一番危ないかというと、それは各々の心なのです。
各々日々自分の心を省みて反省しているでしょうか。
御聖典にあります「ケミカルレアクション」というのは、心機一転、心の変革の事です。
心を改革する。まず、己を解剖して懺悔する。神様、仏様の前にて一切を懺悔するというのが、
神様、仏様への御挨拶となるのです。懺悔が出来るでしょうか。
自分の罪をさらしては恥と思う人は、助からない人、今神様、
仏様の前だけは一切が言えますという人にならなければならないのです。
 一切の俗世は嘘の世界です。嘘の中で宜しくないけれども、
こうしなければ生きていけませんからそうしました。
神様、仏様ゆるして下さい。
そう言える人は、正直者で助かるのです。それが言えたら大きく太るのです。
ここで、大川女史太ったね、とおっしゃり、御自身の事も太ったとおっしゃいました。
この人間界でのプライドを捨て、一切が裸で神の前に跪く者は、一切が今回懺悔、俗世は方便で、
人間世界は都合があるので、都合良くしてきたが、神様の前では正直に申し上げる、
如何なる事も神様任せ、という事になったら、その人は助かるのです。
神様であられる御教組様も、神様も神様としても行があり、
大阪で百日行をなさって心の枠を解かれ、それがどんなに御自分にとって、
救いになったかと言う事をお話して下さったのです。
 小宇宙は、人間を指して小宇宙といいます。
地球は中宇宙、大宇宙は大祖神で、命の世界です。
大宇宙から計算するなれば、天が男役、地が女役、天地が相和合して生まれるのが人間なのです。
ものが生まれるのです。一切が天の光によって、地上に生まれ育っているのです。
そして全てのものは、大祖大神様の魂を頂いているのです。
 人間には三つの関門があります。生ぼりました第一関門、結婚が第二関門、昇天が第三の関門で、
この三つの関門を無事に通れるかどうかが問題なのです。
過去の仏教では、最後の五分間に悟りを得て、肉体はもう救えないけれど、
心だけ救われて天に昇りました、では良い方と言っても、最低に近いのです。
生きて、今肉体が活動している時に、心も身体も救われて十方界に入らねば、
それは本当の信仰の道ではありません。御教組様は、強くその事を説かれたのです。

令和三年三月御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、御元気で御過ごしですか。三月の御神話解説を御送りいたします。三月の十一日は、東北の地震が十年の節目を迎えておりますが、大祖教にとりましては、三月の十一日は、御教組様が天界に昇られた非常に大切な日にちです。
 過去に書かれた御教組様の天界に昇られた時の御神話解説を、読み直していますと、御教組様のお手を離れて、天使信徒達よ、独り立ちして、自分達でしっかりと歩いて行けよ、と申されている様な気持ちになりました。

 誠に残念な事で御座いますが、御教組様は、平成九年三月十一日に天界に御昇りになりました。数々の御教えを私達に残して逝かれたのです。

 昭和五十一年十月八日の御神話の中で、日々の八日とは、どういうものであるかと、お尋ねになりました。
ある天使は、大祖大神様の創られた万物に対する感謝の日とお答えになりました。勿論それもあるが、それと共に日々私達を守って下さる神々様、陰徳の神様に対する感謝祭でもあると、その時お答え頂きました。

 日本の神々様は、皆龍神様で、一万年も修業をして、人の命を守る為、陰から身代わりとなって人の命を助け、大事故の時も御自分が身代わりとなって、十万年の修業を無駄にして又、元の位置より修業をやり直しなさるのです。
 悲惨なるこの神の努めに対し、心より感謝する日でもあるのです。人間は、何か一つでも良い事をしたら、それを認めて欲しい、褒めてほしいと思いますが、陰徳の神様は決して申し出ないのです。
 自分がしたと言えば、陰徳にならないのです。表立って言わない、陰の徳こそが、本当の陰徳であるのです。人に認められるとか、認められないとかは、一切算盤に入れずに、只々自分が守護神として一心にその人を守り給うのです。
 これは、御教組様の御姿そのもので、御教組様は、私がしましたとは一言もおっしゃらず、只ひたすら私達を救う為に、教えを説いて来られました。私の家に来られた時も、お付きの人の罪を救う為に「この人が助かるか、私が逝ってしまうか、どっちかや。」とおっしゃっていましたが、どの人を助ける時も、いざという時は、いつも御自分の命を的にして戦われたのです。我が身を捨てて、只人間の命を救う為の愛のみの御生涯でございました。
 脳梗塞で御身体が御不自由になられ、又次にお目が見えなくなられ、それでも霊眼であたかも見える様に目の前の事をおっしゃるので、時に本当は見えておられるのでは、と疑った位でした。次の発作が起こった時、治療の為に喉に穴を開けられたので、話す事がお出来にならなくなりました。

 私達は、どうにかして元の様にお声を聞きたいと切に願っておりましたが、それは叶いませんでした。
それでもお話しした事に対して、頷いて下さったり、手を上げて合図をして下さったり、それはもう、どうして良いか分からずにすがりついて来る私達を、哀れに思われて、最後の最後迄助けてようとする御姿でございました。
 しかし、この様になられてやっと、私達は何とか自分で必死に考え、必死で神様にお聞きし、手探りながら、自分で歩き始めました。 御教組様にすがりついていた赤ん坊が、やっとよろよろ歩き始めた様なものです。 この様にして少しずつ独り立ちしていく私達を御覧になりながら、御神殿の完成を待ち望まれ、御神殿の完成を待って天界に昇られたのです。

令和三年二月御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、御元気でお過ごしですか。二月二日の、百二十四年ぶりという二日の日の節分も過ぎて、人間界、神霊界共に新しい年を迎えさせて頂きました。二月は、立春という如く一年中で一番寒い時期ではありますが、春がもうすぐそこ迄来ています。先日、白梅がちらほらと咲いているのを見つけました。梅は御神木で、松竹梅の御道でも梅の教えを説かれています。

 "梅の心を知るや君  誰にも負けぬ強者ぞ"
 "花の香りは高らけく 優しさ増して雪の中"
 "人の心をうるおいぬ 咲かせ人生梅の様に"
 "如何なる節も乗り越えて 月日の調べ丸々と"
 "神の御教え一筋に  通う心は梅を見よ"

 私は、始めてこの松竹梅の道を読ませて頂いた時、韻を踏んだこの御教えに深く心を打たれたのを覚えています。はかなげに見える花も本当は強くなければならないと、しかも気高く美しく、そして優しく、そして人に潤いを与える存在となっています。人間の人生もこの梅の花の様に花開かなければなりません。人の人生は色々な時があって、まさに今ウイズコロナで大変な時ですが、これを乗り越えなくてはなりません。なるべく心をかき乱される事無く、神様の御教えを信じて、信仰一筋に進めば、必ず神は働き給いて、救いの道が開かれるのです。

 御教組様の感謝祭の御神話の中に、人間社会の礼儀作法は、孟子,孔子の倫理道徳の域で、それだけでは命の線には届かないのである、と申されています。人間的に美しく奇麗に見せる為に言い訳ばかりする人は、神様の見地からすれば、最低の部類に入ります。御教組様は、仮面は要らない、自分を美化するとか、飾って見せるとかの見栄は一切要らない、裸のままの姿で良い。裸の姿になれた時に、始めて神の命が流れ入るであろうと、申されています。

 本年は、この梅の心をお手本として、頑張って行きたいと思います。もうすぐ春はやってきます。ワクチン接種も始まります。コロナが消滅する様に、皆で頑張りましょう。

『神汝に既に無限億万円を与え置たるに 汝省みて懐中を見られよ 神の創りし実在の人間は既に完全なるぞ 大無我に帰一あれ』

令和三年一月御神話解説

大祖教 御神話解説

 皆様、開けましておめでとうございます。コロナと共の年明けになってしまいましたが、良き年を迎えられたでしょうか。
一月元旦の年始祭は、穏やかに晴れて、天気予報とは裏腹のお天気となりました。今年一年は、この様に、穏やかに過ぎて行って欲しいものです。

 八日の日も、気象台は一週間も前から、雪の注意報を出して、繰り返し不用な外出はしない様に、報じていました。これを聞きまして、八日の感謝祭に行けるだろうかと、とても不安になりました。その時に、御神話の中に、良きも悪しきも人間の感覚である。人間として精一杯の事をしたら、後の判断は、神に任せる。
 神様が良い様にして下さる。それを信じなさい、という御言葉がありました。自分の今の状況を鑑みて、この通りだと思い、御本部に行く用意だけはしっかりとして、後は神様にお任せしようと言う気になりました。とても気持ちは楽になりました。そして、八日は見事に晴れて、天気も荒れる事はなく、行き帰りもあまり風に煽られる事が無く、無事に八日の感謝祭をさせて頂く事が出来たのです。この事で、私は、一つ神様の真理を教えて頂いた気持ちです。
 本日は、昭和四十七年一月八日の御神話より、お話させて頂きます。

 タイトル「神汝に既に無限億万円を与え置たるに 汝省みて懐中を見られよ 神の創りし実在の人間は既に完全なるぞ 大無我に帰一あれ」
神様は、人間を愛するが故に、人間の為にあらゆる天地万有を創り給いて神の芸術の一切を人間におつかわしになりました。一人一人が御自分の懐中を省みられたならば、この偉大なる神に生かされている喜びに、満ちあふれる事でしょう。

 神様は、何事にも動じない、何物にも恐れない、何物にも迷わない人間を創られました。しかし現在の人間は、自分の価値を知らず、目の前の五感の感覚に捕われて迷い、悩み、行くべき所が分からないのです。先ず、神呼び歌を歌って神我一体となって一切を神様にお任せする心が大事です。人間は、自分の心に添わない事が悪しきと思います。Aの者はこれを悪しきと言い、Bの者はこれを良きと言う。好む事も好まない事も、必要であるが故に、又過去の行きがかりが有る故に目の前に出て来るので、自分の好みで判断してはいけないのです。心を神様に委ねて、不安も迷いも神の御心のままにと、信じ、各自がその場その場で役目に徹するなら、必ず明るい道に出る事が出来るのです。

 良いか悪いかは、神様が決める。折角徳を貰っても、一丁先では取り上げられるような不運の道に進んでいたなら、その不運の道を清算して、神様の方で生きる為の計画を立てられます。物質的な徳よりも、命の徳の計算の方が大切なのです。
 良い事を想像する者には、良い事が来る。迷いを想像するものには、迷いが来る。小根を想像する者には、小さい物が来る。大きいものを想像すれば、大きい物が来る事になっているのです。依って、今日の一日をもって一人一人が大根を持って、一歩一歩を向上して行くならば、必ず良き運がやって来ます。良きも悪しきも何が来ても動じない心構えを養って、この一年を神様に心を合わせ、幸いの一年にしたいと思います。コロナも退散する様に!