今月の御神話解説
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令和七年四月八日感謝祭
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本日は、昭和三十八年六月入日の御神話よりお話させて頂きます。
「一時の救いは救いにあらず 心光きが神の御意」
「心光きが神の御意」
この意味が本当にその人のものになっているかどうかで、その人の身辺は楽しくもなれば、悲しくもなれば、淋しくもなり、貧貪ともなるのです。
心の階段は、いつも申されておられます様に、一段から十段迄あります。その中の五段が、普通の常識の人間で、
普通の人間としての理性を持ち、万物の長たる人間として、ある程度出来ており、異常が無いというのが、五段です。
六感、七感は、まだ神様の御慈悲の分からぬ世界で、神も良くない、先祖も良くない、良いのは只自分のみという世界です。
私はこんなにしてやったのに、あんなにしてやったのに、と卵の中をぐるぐるまわっているのです。
卵の中では、光は見えず、あつちに突き当り、こつちにの突き当り、湯も茶も煮えたになって、地獄へ真逆様に落ちてしまうのです。
数に我が肉体のみを愛さず、神の心理のルートに乗って、早くこの階段を登り切る事が大事です。しかし、この六感七感を抜けるには、いろいろの苦しみがやって来ます。
例えば、自分の親族に十億の罪がありとします。どの子に回せば、その罪を解消出来るのか、解消出来る有望な力の有る子供に、神様は罪を着せるのです。
よって、苦しみは悪い人が受けるのではありません。神様から見て、見込みのある人が受けるのです。
六親以内の罪を受けて、如何なる苦しみも、悩みも乗り越え、如何なる風も荒波も乗り越える人が、始めて神様の近くに行けるのです。
絶対にめげないで、壊れないで、六親以内の罪を身を以て果たし、身を以て解消に努力するならば、やがては真の花の咲く時が来るのです。
上に昇れば昇る程、感情に起伏は穏やかになり、にわかに喜んだり、にわかに悲しんだりが無くなって来ます。
嬉しい時は、静かに喜び、無風状態で、船を漕げば、大なる罪は小となり、中の罪は無難となり、受ける罪も無くなってきます。人間には、上中下あり、これは、お金が有るとか、無いとかではありません。その人の心が問題なのです。
上品で、高級で、包容力があり、感情が豊かであり、度量が広い。
その様な修養をして、体勢を整えて、悪い癖は改める。
そして、只一筋に、天地人の道を踏んで、御教祖様の言われる方向に進めば、波も静まり、風もおさまり、過去の苦しみを乗り越えた時に、
始めて、過去の苦しみを笑い話ですます事が出来るのです。信仰は、心にこだわりを持たない事、いかなる難儀があっても、こだわりを捨てる努力をしなければなりません。嫌う事もあってはなりません。
嫌うという事も、こだわりを特っているという事になります。
そうして、家族共々上がる事が大事です。
しかし、家族共々引き上げるには、非常に困難が多いのですが、人間世界は、陰陽の道で、持ちつ持たれつの世界です。夫婦、親子、子弟、朋友、そして、神と先祖、この六法の道を修めなければ、上に昇る事はできません。
釈迦や日蓮の様に、奥様、子供を放り出したり、独り身であったりしては、天地陰陽の道ではありません。
それは七感以下の信仰です。
よって、家族共々に手をつなぎ、助かる方向へ進む事が神様の御意志であるのです。子供は、本当に骨のある育て方をして、一歩一歩神と努力の中へ進み、心の埃を放り出して、心の光の徳を取り入れる様にと、護光天様は、お教え下さったのです。